びーかん日記
尾行と監視され日記、略して「びーかん日記」である。これは、公然たるコーアンとその手先のイジメと弾圧の記録だ。花、鳥、蝶も少々。
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10142012ヘッセ2詩編
10142012ヘッセ2詩編
<目標>
常に私は目標もなく歩き続けた。
どこかで休息を得ようなどとは願いもしなかった。
私の道は終わりのないように思われた。
最後に私は気づいた。自分が只ぐるぐる同じ所を巡っているに過ぎないことを。
私はそんな遍歴に飽きた。そして、その日が私の生の転換点となった。
いま、私はためらいながらも、目標に向かって歩いている。
なぜなら、途上至る所に死が立っていて、私に手を差し伸べているのを知っているから。
(注)「死」を生を歩む拠り所とする、生の思想の反射板とするという考え方は、古代のヨーロッパの遺物によく登場する。墓石や古代都市の壁に描かれた、あの<骸骨の行進>の絵である。
ここから導き出される考えは、つまり刹那主義とも快楽主義とも取れる。「生は短い。生を無駄にするな」。<美食>や<性快楽>を謳歌しようとする指向である。
なんと切ない単純思考だろうか。生を生として捉えないで、死のメガネを通してしか見れないなんて。
子どもは、死を通して生きてはいない。
肉体と精神の成長期にあって、死は隣りに居るかもしれないが、しかし消えているのである、だから子どもは生に没入して、明日は何して遊ぼうかと、楽しい日々を送るのである。
それが、たとえ苦の多い大人や親の愛情に守られてのことだったとしても。
大人が子どものように生きられたら、どんなにか幸せなことだろう。ウソと騙しのない世界。動物に極めて近く。
ヘッセに重要なのは、死のメガネ(生を振り返る気付グスリ、あるいはメキシコの呪術師の言葉=大事な決定をする時には常に死を考えるノダ)だけではなしに、どの道を行くか、だ。彼は、文学的成功の上でどこまで到達したのだろうか。フランスの象徴主義を超えたのだろうか。
<幸福>
君が幸福を追求している限り、君は幸福者であり得るまでに成熟してはいない。
たとえ全ての最も愛すべき者が君を待っているとしても。
君が失なった者のことで嘆いたり、目的を抱いたり、せかせかしている限り、君にはまだ心の平和の何たるかは分からない。
君があらゆる望みを捨て、もはや幸福のことなど口にしなくなった時、その時はじめて「事件」の波はもう君には届かなくなり、君の魂が初めて安らぐ。
(注)この詩は詩と言うえるかどうかさえ疑問な1編。
「事件」という訳語が問題で、もっと別な語句で置き換えることが出来るのかも知れない。
たとえば「出来事」と。これは人生の個人に与えたあらゆる困難や悲しみを指すのかも知れない。
<君があらゆる望みを捨て>と、ある。
なんて悲しい前提だろう。絶望の中にいて初めて幸福が見えてくる?
なんという二律背反。コインの表裏のように、悲しみの裏に幸福が背中合わせになっている。幸福の瞬間が潜んでいる、と?
絶望は消えてはいない。幸福が「魂の安らぎ」だとしたら、絶望の連続や継続の中に、どうして「魂の安らぎ」があるというのだろう。
もっと具体性がなければ、ヘッセの宗教的幸福論は観念論の一種に過ぎなくなる。(彼の覚せい的幸福は、その文学的成功とその結果のプチブル的経済基盤によって保証されている)
私に降りかかっている攻撃の嵐、困難や悲痛、肉体的精神的それ、は、気の持ち方でどうにもなるものではない。
放射線を浴びせられ、電磁波で皮膚を焼かれ、DNAを傷つけられても、気の持ち方と平然と言っていられるほど能天気な、観念論・精神主義はないのではないか。
フォイエルバッハ、である。
現実は現実で存在し、よくも悪くも、その人の存在条件によってその「意思の表徴としての世界」は違い、プラス思考でもマイナス思考でも、とにかくその人は精神を選択せざるを得ないのだ。
プラス思考で、のう天気に過ごし、テキの思惑どおりに、自然死に見せ掛けられて殺されたら、<ばっかみたい!>ということになるのではないか。
そう思いません?
おれっちは、仕方なしに、絶望の中で、楽しみを少し見出して、くくっと独り笑っている、けどね。少しは、世間におすそ分けはしているよ。
それを日本の馬鹿公安は、とくに女は、「躁」じゃない?なんてすぐ言う。
やつは、対象を「けなしまくる」思考しかしない、できないアホウだから、そういう発言しかできないのである。
ほんとに、このおんなは<それしか知らない>、とんでもない単細胞である。俗物の見本みたいなおんなである。
まあ、たいてい、kというのは凡人悪魔なのである。
ジャン・ジュネが警察を蛇蝎のように嫌い、祖国を嫌って、言葉どおりにモロッコで死んだのは、ただ敬服するばかりである。
<目標>
常に私は目標もなく歩き続けた。
どこかで休息を得ようなどとは願いもしなかった。
私の道は終わりのないように思われた。
最後に私は気づいた。自分が只ぐるぐる同じ所を巡っているに過ぎないことを。
私はそんな遍歴に飽きた。そして、その日が私の生の転換点となった。
いま、私はためらいながらも、目標に向かって歩いている。
なぜなら、途上至る所に死が立っていて、私に手を差し伸べているのを知っているから。
(注)「死」を生を歩む拠り所とする、生の思想の反射板とするという考え方は、古代のヨーロッパの遺物によく登場する。墓石や古代都市の壁に描かれた、あの<骸骨の行進>の絵である。
ここから導き出される考えは、つまり刹那主義とも快楽主義とも取れる。「生は短い。生を無駄にするな」。<美食>や<性快楽>を謳歌しようとする指向である。
なんと切ない単純思考だろうか。生を生として捉えないで、死のメガネを通してしか見れないなんて。
子どもは、死を通して生きてはいない。
肉体と精神の成長期にあって、死は隣りに居るかもしれないが、しかし消えているのである、だから子どもは生に没入して、明日は何して遊ぼうかと、楽しい日々を送るのである。
それが、たとえ苦の多い大人や親の愛情に守られてのことだったとしても。
大人が子どものように生きられたら、どんなにか幸せなことだろう。ウソと騙しのない世界。動物に極めて近く。
ヘッセに重要なのは、死のメガネ(生を振り返る気付グスリ、あるいはメキシコの呪術師の言葉=大事な決定をする時には常に死を考えるノダ)だけではなしに、どの道を行くか、だ。彼は、文学的成功の上でどこまで到達したのだろうか。フランスの象徴主義を超えたのだろうか。
<幸福>
君が幸福を追求している限り、君は幸福者であり得るまでに成熟してはいない。
たとえ全ての最も愛すべき者が君を待っているとしても。
君が失なった者のことで嘆いたり、目的を抱いたり、せかせかしている限り、君にはまだ心の平和の何たるかは分からない。
君があらゆる望みを捨て、もはや幸福のことなど口にしなくなった時、その時はじめて「事件」の波はもう君には届かなくなり、君の魂が初めて安らぐ。
(注)この詩は詩と言うえるかどうかさえ疑問な1編。
「事件」という訳語が問題で、もっと別な語句で置き換えることが出来るのかも知れない。
たとえば「出来事」と。これは人生の個人に与えたあらゆる困難や悲しみを指すのかも知れない。
<君があらゆる望みを捨て>と、ある。
なんて悲しい前提だろう。絶望の中にいて初めて幸福が見えてくる?
なんという二律背反。コインの表裏のように、悲しみの裏に幸福が背中合わせになっている。幸福の瞬間が潜んでいる、と?
絶望は消えてはいない。幸福が「魂の安らぎ」だとしたら、絶望の連続や継続の中に、どうして「魂の安らぎ」があるというのだろう。
もっと具体性がなければ、ヘッセの宗教的幸福論は観念論の一種に過ぎなくなる。(彼の覚せい的幸福は、その文学的成功とその結果のプチブル的経済基盤によって保証されている)
私に降りかかっている攻撃の嵐、困難や悲痛、肉体的精神的それ、は、気の持ち方でどうにもなるものではない。
放射線を浴びせられ、電磁波で皮膚を焼かれ、DNAを傷つけられても、気の持ち方と平然と言っていられるほど能天気な、観念論・精神主義はないのではないか。
フォイエルバッハ、である。
現実は現実で存在し、よくも悪くも、その人の存在条件によってその「意思の表徴としての世界」は違い、プラス思考でもマイナス思考でも、とにかくその人は精神を選択せざるを得ないのだ。
プラス思考で、のう天気に過ごし、テキの思惑どおりに、自然死に見せ掛けられて殺されたら、<ばっかみたい!>ということになるのではないか。
そう思いません?
おれっちは、仕方なしに、絶望の中で、楽しみを少し見出して、くくっと独り笑っている、けどね。少しは、世間におすそ分けはしているよ。
それを日本の馬鹿公安は、とくに女は、「躁」じゃない?なんてすぐ言う。
やつは、対象を「けなしまくる」思考しかしない、できないアホウだから、そういう発言しかできないのである。
ほんとに、このおんなは<それしか知らない>、とんでもない単細胞である。俗物の見本みたいなおんなである。
まあ、たいてい、kというのは凡人悪魔なのである。
ジャン・ジュネが警察を蛇蝎のように嫌い、祖国を嫌って、言葉どおりにモロッコで死んだのは、ただ敬服するばかりである。
ヘッセの詩「霧の中」
10122012
「霧の中」ヘルマン・ヘッセ
霧の中をさすらうことの不思議さよ。
繁みも石も それぞれ孤独に、
どの木も他の木を見ることなく、
全てのものがみな独りだ。
まだ私に生活が明るかったころ、
私の世界は友だちに満ちていた。
しかし、霧の立ち込める今、
もう誰の姿も見えない。
全てのものから拒みがたく、
ひっそりと人間を引き離す
暗黒というものを本当に知らない者は、
賢くはない。
霧の中をさすらうことの不思議さよ。
生きるということは孤独であるということだ。
どんな人も他人を知らず、
誰も彼もみな独りだ。
(注)この詩は、第一次大戦の祖国の参戦に反対したヘッセの詩の中で、前線の兵士のなかの一定のひとびとの間で共感を呼んだ詩だという。
彼らは、この詩を読んでひそかに自分の心をひとり慰めた。
<まだ私に生活が明るかったころ、
私の世界は友だちに満ちていた>
ここのフレーズは、なんと辻まことの文章に似ていることだろう。
辻は、戦争(大東亜戦争)に臆面もなくただちに賛成する友人たちを見て、ひどい失望と落胆を味わった。そして彼は、今までの自分の信じていた「世界」、文化人、言説、友人らの悉くと決別せざるを得なかった。
そして、彼は書くのだ。
<私がまだ世界を信じ希望に満ちていたころ>と。
辻は絶望の中から再び出発した。この件は、すでに詳しく書いた。辻はヘッセも読んでいたに違いない。
<暗黒というものを本当に知らない者は、
賢くはない>ヘッセ。
ヘッセは、自身も世間と祖国にパージされながら、「暗黒」を経験した。そう、「絶望」である。もちろん「孤独」も!
<生きるということは孤独であるということだ。
どんな人も他人を知らず、
誰も彼もみな独りだ>
「孤独」には二重の意味が含まれていて、ひとつは、それぞれが戦局時局の中にいて分断され分子化されて連帯感を完全に失っているということ、むろんファシズム的な全体主義の幻想の一体感、熱情化はあるだろうが、その対極の思想としての(反体制?)アンチの連帯である。
もうひとつは、これは人間の普遍的な意味での「孤独」である。
絶望の声を発したとき、かつての友人はこう言った。
「他人のすべてをどうしたって分かりっこない。
妻でさえ、本当に分かっているか、分かったもんじゃない!と」。
わしは、この言葉に失望とまたかすかな同意を持った。分かりっこないのは百も承知だ!くそ、命の危機においてさえ、「友人という他人」は何一つしない、のだ。
この絶望と孤独。
結婚は幻想である。また恋や愛でさえも。
ここまで到達しないのなら、愛や恋やまして慈愛など語るのはやめた方がいい。
動物はウソはつかないし、いじわるもしない。知恵のある人間だけが他者に対し悪意もするし傷つけもする。
動物に学ぶ、ということはそういうことではないのか。
(脱線補遺)
禅宗は武士の宗教として発達した。曹洞宗の本山はたしか二つほどあり、総持寺は初期の東アジアはんにちぶそう戦線によって碑をばくはされた。同寺が侵略戦争の讃美者だったからだ。
・・・中略・・・
安土桃山から江戸へ、キリシタンが増加した理由は、過酷な搾取と階級社会にあって、民衆を救ってくれる、助けてくれる宗教仏教は無かったからだ。
だから、<基督教を仏教化し>たような観音信仰=マリア観音(仏教化したキリスト教)として民衆は受容した。
わたしは田舎の博物館で、川を遡る運搬帆かけ船農民の写真を見、その写真説明を見て愕然とした。そこにはたしか税金搾取率73%、と書かれていた(不正確記憶頼り)。これほどまでに年貢の取立ては苛酷だったのか、と。
そして初めて知った。武士の存在基盤はこうした強搾取によって保証されていたのだ、と。武士の宗教・禅宗は百姓の宗教にならなかったのにはわけがあるのである。
そして禅宗が軍国主義を批判できなかった理由も。なぜなら、支配階級の宗教だったからだ。言葉を変えて言うなら、支配階級の支配をなんら脅かすことの無い、教養としての宗教だったからだ。
少なくとも、基督教には貧乏人や病人困窮者を助けるという道徳が存在する。ラオでも乞食は沢山いた。身障者もたくさん居る。
しかし、その国の仏教は階級として存在していながら何らこれらのひとびとを救ってはいない。あり余るほどの寄付を得ながら(銀行に札束で預金)、若い坊主たちはiフォンをやったりしている。傍らで、土にまみれた乞食の群れが居るというのに。
仏教の観念論はもうたくさんだ。
深沢が仏教がほんとうの仏陀の教えなら、あんな建物寺など(おそらく僧団も)ありうるはずが無い、というのはもっともな話だ。
キリスト教だって、そうだ。あんな天を突き刺す広大な教会や、えらそうな牧師群も。
須賀敦子がもう教会にもミサにも行きません、と語ったのには理由があるのだ。
「霧の中」ヘルマン・ヘッセ
霧の中をさすらうことの不思議さよ。
繁みも石も それぞれ孤独に、
どの木も他の木を見ることなく、
全てのものがみな独りだ。
まだ私に生活が明るかったころ、
私の世界は友だちに満ちていた。
しかし、霧の立ち込める今、
もう誰の姿も見えない。
全てのものから拒みがたく、
ひっそりと人間を引き離す
暗黒というものを本当に知らない者は、
賢くはない。
霧の中をさすらうことの不思議さよ。
生きるということは孤独であるということだ。
どんな人も他人を知らず、
誰も彼もみな独りだ。
(注)この詩は、第一次大戦の祖国の参戦に反対したヘッセの詩の中で、前線の兵士のなかの一定のひとびとの間で共感を呼んだ詩だという。
彼らは、この詩を読んでひそかに自分の心をひとり慰めた。
<まだ私に生活が明るかったころ、
私の世界は友だちに満ちていた>
ここのフレーズは、なんと辻まことの文章に似ていることだろう。
辻は、戦争(大東亜戦争)に臆面もなくただちに賛成する友人たちを見て、ひどい失望と落胆を味わった。そして彼は、今までの自分の信じていた「世界」、文化人、言説、友人らの悉くと決別せざるを得なかった。
そして、彼は書くのだ。
<私がまだ世界を信じ希望に満ちていたころ>と。
辻は絶望の中から再び出発した。この件は、すでに詳しく書いた。辻はヘッセも読んでいたに違いない。
<暗黒というものを本当に知らない者は、
賢くはない>ヘッセ。
ヘッセは、自身も世間と祖国にパージされながら、「暗黒」を経験した。そう、「絶望」である。もちろん「孤独」も!
<生きるということは孤独であるということだ。
どんな人も他人を知らず、
誰も彼もみな独りだ>
「孤独」には二重の意味が含まれていて、ひとつは、それぞれが戦局時局の中にいて分断され分子化されて連帯感を完全に失っているということ、むろんファシズム的な全体主義の幻想の一体感、熱情化はあるだろうが、その対極の思想としての(反体制?)アンチの連帯である。
もうひとつは、これは人間の普遍的な意味での「孤独」である。
絶望の声を発したとき、かつての友人はこう言った。
「他人のすべてをどうしたって分かりっこない。
妻でさえ、本当に分かっているか、分かったもんじゃない!と」。
わしは、この言葉に失望とまたかすかな同意を持った。分かりっこないのは百も承知だ!くそ、命の危機においてさえ、「友人という他人」は何一つしない、のだ。
この絶望と孤独。
結婚は幻想である。また恋や愛でさえも。
ここまで到達しないのなら、愛や恋やまして慈愛など語るのはやめた方がいい。
動物はウソはつかないし、いじわるもしない。知恵のある人間だけが他者に対し悪意もするし傷つけもする。
動物に学ぶ、ということはそういうことではないのか。
(脱線補遺)
禅宗は武士の宗教として発達した。曹洞宗の本山はたしか二つほどあり、総持寺は初期の東アジアはんにちぶそう戦線によって碑をばくはされた。同寺が侵略戦争の讃美者だったからだ。
・・・中略・・・
安土桃山から江戸へ、キリシタンが増加した理由は、過酷な搾取と階級社会にあって、民衆を救ってくれる、助けてくれる宗教仏教は無かったからだ。
だから、<基督教を仏教化し>たような観音信仰=マリア観音(仏教化したキリスト教)として民衆は受容した。
わたしは田舎の博物館で、川を遡る運搬帆かけ船農民の写真を見、その写真説明を見て愕然とした。そこにはたしか税金搾取率73%、と書かれていた(不正確記憶頼り)。これほどまでに年貢の取立ては苛酷だったのか、と。
そして初めて知った。武士の存在基盤はこうした強搾取によって保証されていたのだ、と。武士の宗教・禅宗は百姓の宗教にならなかったのにはわけがあるのである。
そして禅宗が軍国主義を批判できなかった理由も。なぜなら、支配階級の宗教だったからだ。言葉を変えて言うなら、支配階級の支配をなんら脅かすことの無い、教養としての宗教だったからだ。
少なくとも、基督教には貧乏人や病人困窮者を助けるという道徳が存在する。ラオでも乞食は沢山いた。身障者もたくさん居る。
しかし、その国の仏教は階級として存在していながら何らこれらのひとびとを救ってはいない。あり余るほどの寄付を得ながら(銀行に札束で預金)、若い坊主たちはiフォンをやったりしている。傍らで、土にまみれた乞食の群れが居るというのに。
仏教の観念論はもうたくさんだ。
深沢が仏教がほんとうの仏陀の教えなら、あんな建物寺など(おそらく僧団も)ありうるはずが無い、というのはもっともな話だ。
キリスト教だって、そうだ。あんな天を突き刺す広大な教会や、えらそうな牧師群も。
須賀敦子がもう教会にもミサにも行きません、と語ったのには理由があるのだ。
引用される「被害者ぶる逆工作」
引用される「被害者ぶる逆工作」
どっちもどっち?
<上記のサイトでは、集団ストーカーをごまかすために、逆手をとる工作手法により、具体的なものが語られています。しかし・・・その犯罪の出処をごまかすために・・・色んな宗教名が書き込まれたりもしているのです。犯罪被害に遭っている人間には、犯罪を仕掛けている人間の特定ができないはずです。
ここに、典型的な、右翼の[集団ストーカー被害利用]策動・工作がある。>(「明日のために」というぶろぐ、に引用された)
この部分は俺の記述ではない。あたかも俺が書いたかのように「混ぜている」。卑怯。
おれは、具体的に集団ストーカーの犯人を逐次確認できるものはしている。被害者は犯人を特定できない、なんて一般論は成立しない。そうkはやってることは確か、なんだから。
で、ステッカーなり証拠物なりで判明した犯人名は多岐にわたる。
たとえば、せいちょおの家。
りっしょう後世会
ぶしょごねるかい
まひかr。
reいはのひかり。
しんとおたい教え。
sか。
k産業党。
(書き込み規制されるおそれ)
という具合で、これらを統括する団体として、安全安心パトロールやこれに加わる「にほん会議」の面々がある、と主張しているのである。
私の不十分な書き込みが、こうして自分ら(この方のように)の立場の正当化や補強につながるとみれば、引用して利用するのである。
sか側もそうしている。内ゲバ反対側の極右もそうしている。
「宗敵が来た!」と数度叫んだのは、どこのどいつだ。sなのである。
やくざは俺の氏名を教えもしないのに知っていた。暗殺者あるいは攻撃者として下っ端が派遣されて来ているのである。
もうひとりの公安らしき人物のしていることは、このやくざと変わりない。深夜に口笛を吹くのである。そして、顔を隠すこと隠すこと、新聞で。滑稽である。
*追記11222012:他のぶろぐでも、「明日・・」と全く同一に捏造紛れ込み記事を掲載している。おそらく、そうかがっかい、なのだろう。彼らの敵を批判することになるから、おれの記事を捏造して利用してるわけだ。何度も言うが、ストーカー被害者が犯人を特定できるわけがない、などと言った覚えはないし、自分の記事を再度点検したが、そういった記述はいっさいない。たちの悪い工作である。
どっちもどっち?
<上記のサイトでは、集団ストーカーをごまかすために、逆手をとる工作手法により、具体的なものが語られています。しかし・・・その犯罪の出処をごまかすために・・・色んな宗教名が書き込まれたりもしているのです。犯罪被害に遭っている人間には、犯罪を仕掛けている人間の特定ができないはずです。
ここに、典型的な、右翼の[集団ストーカー被害利用]策動・工作がある。>(「明日のために」というぶろぐ、に引用された)
この部分は俺の記述ではない。あたかも俺が書いたかのように「混ぜている」。卑怯。
おれは、具体的に集団ストーカーの犯人を逐次確認できるものはしている。被害者は犯人を特定できない、なんて一般論は成立しない。そうkはやってることは確か、なんだから。
で、ステッカーなり証拠物なりで判明した犯人名は多岐にわたる。
たとえば、せいちょおの家。
りっしょう後世会
ぶしょごねるかい
まひかr。
reいはのひかり。
しんとおたい教え。
sか。
k産業党。
(書き込み規制されるおそれ)
という具合で、これらを統括する団体として、安全安心パトロールやこれに加わる「にほん会議」の面々がある、と主張しているのである。
私の不十分な書き込みが、こうして自分ら(この方のように)の立場の正当化や補強につながるとみれば、引用して利用するのである。
sか側もそうしている。内ゲバ反対側の極右もそうしている。
「宗敵が来た!」と数度叫んだのは、どこのどいつだ。sなのである。
やくざは俺の氏名を教えもしないのに知っていた。暗殺者あるいは攻撃者として下っ端が派遣されて来ているのである。
もうひとりの公安らしき人物のしていることは、このやくざと変わりない。深夜に口笛を吹くのである。そして、顔を隠すこと隠すこと、新聞で。滑稽である。
*追記11222012:他のぶろぐでも、「明日・・」と全く同一に捏造紛れ込み記事を掲載している。おそらく、そうかがっかい、なのだろう。彼らの敵を批判することになるから、おれの記事を捏造して利用してるわけだ。何度も言うが、ストーカー被害者が犯人を特定できるわけがない、などと言った覚えはないし、自分の記事を再度点検したが、そういった記述はいっさいない。たちの悪い工作である。
ふたつ隣にやくざ刺客か
ふたつ隣にやくざ刺客か1011/2012、
無音のゴム底のズックを履いて深夜館内を尾行。
深夜、匂いのするクリームを手の甲などに塗り、窓をあけ、外気を入れてこっちに匂いを流す。
五感を刺激して、たとえば、大音響の物音を故意に立てる、椅子を床をひきずる、などなど、あまつさえ、レーザー銃によるスポット攻撃。
暗殺者を抱えているのは、やくざや宗教、国家、政治組織、など。
この「片側の肩に入れ墨」若い男、不審このうえない。
ドアを開けっ放しにして、眠らせないように行動する。
ここまで具体的に書いても、信じない人がいる。
事実は小説よりも奇なり。
そんな人物か、って?
いまとなっては、そんな人物なんだよ、と答えることにしている。
論文の数々をみれば、権力やそのたいこもちの逆鱗に触れているのは明らか。
桜の下で死なん?って歌があったが、まっぴらごめんだね。
どこで死んでも、と言いたいところだが、「日本」の山の自然はいいよなぁ。
観音経を調べていたら、この経を持ち上げているのは、密教に限らず、せいちょうの家もそうなんだよな。当初、田舎で尾行をしていた軽トラックは、せいちょおの家の交通安全ステッカーを貼っていた。しつこかったゾ、くそじじい。
ソウカもそうらしい。深沢七郎の「笛吹川」の最後、炎上する屋やの中でお経をあげて死ぬ一族子孫の坊さんは、観音経を唱えて死んでいく。
無音のゴム底のズックを履いて深夜館内を尾行。
深夜、匂いのするクリームを手の甲などに塗り、窓をあけ、外気を入れてこっちに匂いを流す。
五感を刺激して、たとえば、大音響の物音を故意に立てる、椅子を床をひきずる、などなど、あまつさえ、レーザー銃によるスポット攻撃。
暗殺者を抱えているのは、やくざや宗教、国家、政治組織、など。
この「片側の肩に入れ墨」若い男、不審このうえない。
ドアを開けっ放しにして、眠らせないように行動する。
ここまで具体的に書いても、信じない人がいる。
事実は小説よりも奇なり。
そんな人物か、って?
いまとなっては、そんな人物なんだよ、と答えることにしている。
論文の数々をみれば、権力やそのたいこもちの逆鱗に触れているのは明らか。
桜の下で死なん?って歌があったが、まっぴらごめんだね。
どこで死んでも、と言いたいところだが、「日本」の山の自然はいいよなぁ。
観音経を調べていたら、この経を持ち上げているのは、密教に限らず、せいちょうの家もそうなんだよな。当初、田舎で尾行をしていた軽トラックは、せいちょおの家の交通安全ステッカーを貼っていた。しつこかったゾ、くそじじい。
ソウカもそうらしい。深沢七郎の「笛吹川」の最後、炎上する屋やの中でお経をあげて死ぬ一族子孫の坊さんは、観音経を唱えて死んでいく。
鶴岡真弓女史ハーフは誤りか
鶴岡真弓女史ハーフは誤りか1011・2012、
しつこく上記のタイトルを検索でアプローチしてくる人がいるので、ひょっとして、本人が抗議の意思を表明しているのかもしれない。
ま、分からないけど。
おれも調べてみたが、ハーフの顔立ちからそう判断しただけで、本当の根拠はない。
で、本人の名誉というか尊厳を傷つけるといけないので、鶴岡真弓氏がハーフという文面は削除したい。
が、もちょっと後になるので了解してほしい。
記事を検索するのに時間がないのと、ほかの理由もあるので。
まあ、ハーフに似ているひとはいるもので、先祖をたどったら、「また会う日まで」のおざききよひこ氏もくぉーたー、だった。
西丸しんや氏も同著書で明らかにしているようにハーフだよ。
おもしろい人だったけどね。
しつこく上記のタイトルを検索でアプローチしてくる人がいるので、ひょっとして、本人が抗議の意思を表明しているのかもしれない。
ま、分からないけど。
おれも調べてみたが、ハーフの顔立ちからそう判断しただけで、本当の根拠はない。
で、本人の名誉というか尊厳を傷つけるといけないので、鶴岡真弓氏がハーフという文面は削除したい。
が、もちょっと後になるので了解してほしい。
記事を検索するのに時間がないのと、ほかの理由もあるので。
まあ、ハーフに似ているひとはいるもので、先祖をたどったら、「また会う日まで」のおざききよひこ氏もくぉーたー、だった。
西丸しんや氏も同著書で明らかにしているようにハーフだよ。
おもしろい人だったけどね。
秋が来た時
詩●●
<秋が来た時>
木々を揺する風に
おれは胸をときめかす
峰を越える風に
おれは自由を想う
瀟々と雨が降る
森の樹を打つ雨が降る
おれは褥で横たわり
傷心で聴いている
雨がやさしく撫でて行く
雨がやさしく撫でて行く」
(1988年9月「続どしゃぶり行」かずまさ)
(*天安門事件が起きる前年ですね。テレサが活動を停止していた時期でもあります)
*傷心で横たわっているのに、なぜこの人は「揺する風」や「越える風」に胸をときめかしたり自由を想ったり、するのだろう。
それは、考えうるに、傷ごころは同時に「解放」でもあった、ということではないか。ありうる話である。
そしてまた、雨がその心をなだめている。静かに降る雨はいいものです。
<秋が来た時>
木々を揺する風に
おれは胸をときめかす
峰を越える風に
おれは自由を想う
瀟々と雨が降る
森の樹を打つ雨が降る
おれは褥で横たわり
傷心で聴いている
雨がやさしく撫でて行く
雨がやさしく撫でて行く」
(1988年9月「続どしゃぶり行」かずまさ)
(*天安門事件が起きる前年ですね。テレサが活動を停止していた時期でもあります)
*傷心で横たわっているのに、なぜこの人は「揺する風」や「越える風」に胸をときめかしたり自由を想ったり、するのだろう。
それは、考えうるに、傷ごころは同時に「解放」でもあった、ということではないか。ありうる話である。
そしてまた、雨がその心をなだめている。静かに降る雨はいいものです。
テレサ教会の「P」は聖母マリアのM「P」?
テレサ教会の「P」は聖母マリアのM「P」?
正ギリシャ教会の聖母マリアの説明を、TVで見ていたら、その表記が「MP」なのを発見した。
「P」とはなんじゃ?
ぷりみてぃぶ?分からん。教会の「X」はジーザスの「X」だろう。写真を参照のこと。
イスタンブールにも行きたいね。いのちがあれば。それと、あれ。
正ギリシャ教会の聖母マリアの説明を、TVで見ていたら、その表記が「MP」なのを発見した。
「P」とはなんじゃ?
ぷりみてぃぶ?分からん。教会の「X」はジーザスの「X」だろう。写真を参照のこと。
イスタンブールにも行きたいね。いのちがあれば。それと、あれ。
tiann ijihou tositeno seisinn eiseihou
tiann ijihou tositeno seisinn eiseihou.
seijyou demo nanndeo tonikaku kitigai dearu toiukoto ni site simau,
korega yatura no mesoddo da.
korekara kitigai ni oikomu toiunodehanasi ni
kitigai toiu kimetukeru.
kono rikutu ga wakaranai baka ga saikou gakufu no nakanimo iru.
tehe.
seijyou demo nanndeo tonikaku kitigai dearu toiukoto ni site simau,
korega yatura no mesoddo da.
korekara kitigai ni oikomu toiunodehanasi ni
kitigai toiu kimetukeru.
kono rikutu ga wakaranai baka ga saikou gakufu no nakanimo iru.
tehe.
10012012<黒猫のチビ><黒猫の夕べに>
10012012<黒猫のチビ>
いつものように、籐椅子に座って、
エントランス越しにラオの高い空を見ていると、
ひょこひょことブロック塀の上を、
痩せガラの黒猫の子猫が渡って来た。
腹のあばらは浮き出て、
今にも、いや明日にも死にそうに見えた。
母親はいつも現われる黒猫だろう。
父親は、この黒猫と戯れている虎猫か。
と噂し、
母猫は、もう「子離し」を決行したんでしょうね。
なんて、我らは、その無関心風の態度を見て、言い 合った。
一度は子猫のそばに現われるから、一応、
気に掛けてはいるんでしょう。とかなんとか。
チビは野生で、人が近づくと物陰にさっと逃げる。
でも、期待しているようにも見える。餌を。
パン一枚を牛乳をひたして投げた。
チビは飛びついた。
食べている。
よかった、よかった。
物は愛情の伝達なのだ。
チビは、それから毎夜塀を越えて現われる。
泣きはしないが、われらと一定距離をとって、
木材置き場を下に隠れて待っている。
餌を投げた。
チビがパンや骨付き肉をしゃぶっている。
我らは昔日の祖国の歌謡曲を聴き、だべって過ごし た。
明日もチビが現われるのを密かに期待しながら。
10012012<黒猫の夕べに>
メコンの向うに夕陽が沈み
夜のトバリが下りるころ
涼しい風が肩越しに吹き
我らはテラスで祖国の歌を聴いていた
若い頃の懐かしい歌を。
街灯が芝生に深い影を落としていた。
エントランスの格子越しの歩道で
二匹の猫が戯れていた。
かと思うと、
ふいに黒猫の母猫が鉄格子の間を抜けて来た。
影の中にすぃと座る。
そして黒猫子猫のチビが手前に現われた。
チビも座った。
こうして、三つの命は「く」の字の置石。
存在の在り様がこうであるように、
それぞれが絶妙な「距離」を取っていた。
近すぎもせず遠くでもなく。
それは遥か遠い昔、若いころの夏のさんざめきの陶 酔の思い出。
わたしらは、その存在の距離を言い合ったのだ。
愛していながら、距離のある存在の遠さを。
静かで、深遠で、いとおしくて、穏やかで、永遠のよう に思える時間が、経って行く。
ポータブルpcは、テレサ・テンの演歌「北の旅」をが なっていた。
街頭に帰宅のざわめきが戻って、
猫たちは物陰に消えた。
そして、われらの孤独が残った。
いつものように、籐椅子に座って、
エントランス越しにラオの高い空を見ていると、
ひょこひょことブロック塀の上を、
痩せガラの黒猫の子猫が渡って来た。
腹のあばらは浮き出て、
今にも、いや明日にも死にそうに見えた。
母親はいつも現われる黒猫だろう。
父親は、この黒猫と戯れている虎猫か。
と噂し、
母猫は、もう「子離し」を決行したんでしょうね。
なんて、我らは、その無関心風の態度を見て、言い 合った。
一度は子猫のそばに現われるから、一応、
気に掛けてはいるんでしょう。とかなんとか。
チビは野生で、人が近づくと物陰にさっと逃げる。
でも、期待しているようにも見える。餌を。
パン一枚を牛乳をひたして投げた。
チビは飛びついた。
食べている。
よかった、よかった。
物は愛情の伝達なのだ。
チビは、それから毎夜塀を越えて現われる。
泣きはしないが、われらと一定距離をとって、
木材置き場を下に隠れて待っている。
餌を投げた。
チビがパンや骨付き肉をしゃぶっている。
我らは昔日の祖国の歌謡曲を聴き、だべって過ごし た。
明日もチビが現われるのを密かに期待しながら。
10012012<黒猫の夕べに>
メコンの向うに夕陽が沈み
夜のトバリが下りるころ
涼しい風が肩越しに吹き
我らはテラスで祖国の歌を聴いていた
若い頃の懐かしい歌を。
街灯が芝生に深い影を落としていた。
エントランスの格子越しの歩道で
二匹の猫が戯れていた。
かと思うと、
ふいに黒猫の母猫が鉄格子の間を抜けて来た。
影の中にすぃと座る。
そして黒猫子猫のチビが手前に現われた。
チビも座った。
こうして、三つの命は「く」の字の置石。
存在の在り様がこうであるように、
それぞれが絶妙な「距離」を取っていた。
近すぎもせず遠くでもなく。
それは遥か遠い昔、若いころの夏のさんざめきの陶 酔の思い出。
わたしらは、その存在の距離を言い合ったのだ。
愛していながら、距離のある存在の遠さを。
静かで、深遠で、いとおしくて、穏やかで、永遠のよう に思える時間が、経って行く。
ポータブルpcは、テレサ・テンの演歌「北の旅」をが なっていた。
街頭に帰宅のざわめきが戻って、
猫たちは物陰に消えた。
そして、われらの孤独が残った。
ヘルマン・ヘッセの蝶と歌姫の詩
★ヘルマン・ヘッセの蝶と歌姫の詩(2012/09/23)
ヘルマン・ヘッセ Hermann Hesse 1877/07/02、南独シュヴァーベン、ヴェルテンベルグ州カルヴ市生まれ。父エストニア系ドイツ人宣教師インド派遣、母フラン系ドイツ人名家出身。
ヘルマン・ヘッセは文学史上ではそれまでの自然主義文学のあとを受けた新ロマン主義と言われるが、それはフランス美術史の象徴主義と似ているという。
宗教精神の探究という面からみると、宗教改革の立役者ルターの本拠地だけあって、神との直接対話というプロテスタントの色彩が強い。だから、既存教会への批判を含んでいる。
彼は、たしか小説より詩から文学の軌道に乗り始めた。ここにあげたヘッセの詩は、テレサ・テン鄧麗君との関連で見るならば、情緒の点でわたしの文章とずいぶんと似通っている。
たとえば、<私は帆柱のそばに黙然と立って、いつまでもその燃える眼の虜でありたいと願った>という感慨。
また、ヘッセの詩で、蝶が魂の依り代という捉え方がドイツでもあったという事実がヘッセの詩で証明されたわけで、あのパプア・ニューギニアの現地人の考え(水木しげる著作での叙述)と共通するのは実に興味深い。
ちなみに、ヘッセは第一次大戦の時、自国の戦争に反対して、文壇からもパージされた経験をもち、ロマン・ロランとこの時から生涯にわたる親交をもつにいたった。
1、
<或る中国の歌姫に>
夕暮れ、私たちは、静かな河を舟で行った。
アカシアは薔薇色に輝いて立ち、雲も薔薇色に光っていた。
しかし、私たちはほとんどそれらを見ず、ひたすら貴方の髪に挿された李(すもも)の花を見ていた。
貴方は、飾り立てられた小舟の舳先(へさき)に微笑みながら座って、手馴れた手付で琵琶を取り、両目に若さを燃やしながら、聖なる祖国の歌を歌った。
私は帆柱のそばに黙然と立って、いつまでもその燃える眼の虜でありたいと願い、
貴方の、花のように優しい手の妙(たえ)なる弾奏と歌とを、至福の悩ましさの中で、永久に聴いていたいと願った。
2、
<蝶>
或る悲しみに見舞われていた時のことだった。
私は野中を歩きながら、一羽の蝶を目にした。
蝶は鮮やかな白と暗紅色に彩(いろど)られて、青い風のようにひらひらと飛んでいた。
おお、お前だ。
子どものころ、世界がまだあんなにも朝のように晴れ晴れと、まだあんなにも天に近いものに見えたころに、
その美しい翼を広げているお前を見たのが、最後だった。
楽園から来たお前、
色も綾に、なよなよと風に吹かれて行く者よ。
今、お前の深い、神々しい輝きを目の前に、なんと私がよそ者のように、また羞恥に満たされて、内気な目付きで立っていなければならないことか。
白と赤の蝶は、野の方へと吹かれて行った。
そして私は夢見心地に歩み、そういう私に楽園からの一つの静かな輝きが残された。
3、
<碧い蝶>
一羽の小さな蝶が
風に吹かれて飛んで行く。
真珠母色のにわか雨がきらめき、ちらつき、消えてゆく。
そのように一瞬の輝きまで、
そのように風に運ばれて、
自分の幸福が合図しながら、きらめき、ちらつき、消えてゆくのを、
私は見た。
4、
<晩夏の蝶>
沢山の蝶の出る時が来て、彼らの舞踏が遅咲きのフロックスの匂いの中で、
柔らかによろめいている。
赤タテハ、緋縅蝶、アゲハ蝶、緑豹紋に豹紋蝶、
内気な蜂雀、赤い火取り蛾、黄ベリタテハに姫タテハ。
青い空から泳ぐように彼らは黙々と降りてくる。
色は高貴で、毛皮、ビロードを身にまとい、宝石のように輝きながら、悠然と漂っている。
華やかに物悲しく、物言わず痺れたように、今はない童話の国から訪れてくる。
彼らはここでは余所者だが、楽園めいた、アルカディアめいた花野の蜜の雫に濡れて、
我らが夢の中に見る失なわれた古里の、あの東の国からの命短い客である。
そして、その彼らの霊的な便りを、一つの貴い実在の優しい証(あかし)と、我らは信じる。
すべての美しい者と無常な者と、あまりにも優しい者と豊か過ぎる者との象徴、
高齢の夏の帝の宴に集う、金に飾られた憂鬱な客よ!
5、
<イエスと貧しき人々>
あなたは死にました。愛するクリストよ。
しかし、あなたを身代わりとして死なせた人々、
その人びとは何処にいるのですか。
あなたの肉体はパンとなりました。
それを僧正や正義の人たちは安息日が来ると食べますが、
その彼らの戸口を我々飢えた者たちは物乞いして回るのです。
我々はあなたの施しのパンを食べません。
そのパンを肥え太った僧侶や、満腹した人たちがちぎります。
それから彼らは金儲けや戦争の指揮や、人殺しに出かけます。
あなたによって幸福になった者は一人もありません。
我々貧しい者たち、我々は窮乏や汚辱や十字架に向かって、あなたの踏んだ道を行きます。
他の人たちは聖なる晩餐から帰って来ます。
そして、焼肉と菓子とに僧を招きます。
兄弟クリストよ、あなたの悩みは無駄でした。
ーー満腹した者どもに、その求める物をお与えなさい!
我々飢えた者たちは、あなたに何物も求めません。
クリストよ、
我々は只あなたを愛します。
あなたは我々の一人ですから。
6、
<すかれゆく薔薇>
多くの命ある者がこのことを理解するといい。
多くの愛人たちがこれを学ぶといい。
このように己(おの)が薫りに陶然となり、このようにうっとりと殺害者の風に聴き入り、
このように薄赤い花の戯れとなって吹き散らされ、
微笑みながら愛の宴から遠去かり、
このように別れを祭りとして祝い、
このように肉体を解脱して滑り落ち、
そして口づけのように、死を飲むことを。
(*注:これは散りゆく薔薇の詩である)
ヘルマン・ヘッセ Hermann Hesse 1877/07/02、南独シュヴァーベン、ヴェルテンベルグ州カルヴ市生まれ。父エストニア系ドイツ人宣教師インド派遣、母フラン系ドイツ人名家出身。
ヘルマン・ヘッセは文学史上ではそれまでの自然主義文学のあとを受けた新ロマン主義と言われるが、それはフランス美術史の象徴主義と似ているという。
宗教精神の探究という面からみると、宗教改革の立役者ルターの本拠地だけあって、神との直接対話というプロテスタントの色彩が強い。だから、既存教会への批判を含んでいる。
彼は、たしか小説より詩から文学の軌道に乗り始めた。ここにあげたヘッセの詩は、テレサ・テン鄧麗君との関連で見るならば、情緒の点でわたしの文章とずいぶんと似通っている。
たとえば、<私は帆柱のそばに黙然と立って、いつまでもその燃える眼の虜でありたいと願った>という感慨。
また、ヘッセの詩で、蝶が魂の依り代という捉え方がドイツでもあったという事実がヘッセの詩で証明されたわけで、あのパプア・ニューギニアの現地人の考え(水木しげる著作での叙述)と共通するのは実に興味深い。
ちなみに、ヘッセは第一次大戦の時、自国の戦争に反対して、文壇からもパージされた経験をもち、ロマン・ロランとこの時から生涯にわたる親交をもつにいたった。
1、
<或る中国の歌姫に>
夕暮れ、私たちは、静かな河を舟で行った。
アカシアは薔薇色に輝いて立ち、雲も薔薇色に光っていた。
しかし、私たちはほとんどそれらを見ず、ひたすら貴方の髪に挿された李(すもも)の花を見ていた。
貴方は、飾り立てられた小舟の舳先(へさき)に微笑みながら座って、手馴れた手付で琵琶を取り、両目に若さを燃やしながら、聖なる祖国の歌を歌った。
私は帆柱のそばに黙然と立って、いつまでもその燃える眼の虜でありたいと願い、
貴方の、花のように優しい手の妙(たえ)なる弾奏と歌とを、至福の悩ましさの中で、永久に聴いていたいと願った。
2、
<蝶>
或る悲しみに見舞われていた時のことだった。
私は野中を歩きながら、一羽の蝶を目にした。
蝶は鮮やかな白と暗紅色に彩(いろど)られて、青い風のようにひらひらと飛んでいた。
おお、お前だ。
子どものころ、世界がまだあんなにも朝のように晴れ晴れと、まだあんなにも天に近いものに見えたころに、
その美しい翼を広げているお前を見たのが、最後だった。
楽園から来たお前、
色も綾に、なよなよと風に吹かれて行く者よ。
今、お前の深い、神々しい輝きを目の前に、なんと私がよそ者のように、また羞恥に満たされて、内気な目付きで立っていなければならないことか。
白と赤の蝶は、野の方へと吹かれて行った。
そして私は夢見心地に歩み、そういう私に楽園からの一つの静かな輝きが残された。
3、
<碧い蝶>
一羽の小さな蝶が
風に吹かれて飛んで行く。
真珠母色のにわか雨がきらめき、ちらつき、消えてゆく。
そのように一瞬の輝きまで、
そのように風に運ばれて、
自分の幸福が合図しながら、きらめき、ちらつき、消えてゆくのを、
私は見た。
4、
<晩夏の蝶>
沢山の蝶の出る時が来て、彼らの舞踏が遅咲きのフロックスの匂いの中で、
柔らかによろめいている。
赤タテハ、緋縅蝶、アゲハ蝶、緑豹紋に豹紋蝶、
内気な蜂雀、赤い火取り蛾、黄ベリタテハに姫タテハ。
青い空から泳ぐように彼らは黙々と降りてくる。
色は高貴で、毛皮、ビロードを身にまとい、宝石のように輝きながら、悠然と漂っている。
華やかに物悲しく、物言わず痺れたように、今はない童話の国から訪れてくる。
彼らはここでは余所者だが、楽園めいた、アルカディアめいた花野の蜜の雫に濡れて、
我らが夢の中に見る失なわれた古里の、あの東の国からの命短い客である。
そして、その彼らの霊的な便りを、一つの貴い実在の優しい証(あかし)と、我らは信じる。
すべての美しい者と無常な者と、あまりにも優しい者と豊か過ぎる者との象徴、
高齢の夏の帝の宴に集う、金に飾られた憂鬱な客よ!
5、
<イエスと貧しき人々>
あなたは死にました。愛するクリストよ。
しかし、あなたを身代わりとして死なせた人々、
その人びとは何処にいるのですか。
あなたの肉体はパンとなりました。
それを僧正や正義の人たちは安息日が来ると食べますが、
その彼らの戸口を我々飢えた者たちは物乞いして回るのです。
我々はあなたの施しのパンを食べません。
そのパンを肥え太った僧侶や、満腹した人たちがちぎります。
それから彼らは金儲けや戦争の指揮や、人殺しに出かけます。
あなたによって幸福になった者は一人もありません。
我々貧しい者たち、我々は窮乏や汚辱や十字架に向かって、あなたの踏んだ道を行きます。
他の人たちは聖なる晩餐から帰って来ます。
そして、焼肉と菓子とに僧を招きます。
兄弟クリストよ、あなたの悩みは無駄でした。
ーー満腹した者どもに、その求める物をお与えなさい!
我々飢えた者たちは、あなたに何物も求めません。
クリストよ、
我々は只あなたを愛します。
あなたは我々の一人ですから。
6、
<すかれゆく薔薇>
多くの命ある者がこのことを理解するといい。
多くの愛人たちがこれを学ぶといい。
このように己(おの)が薫りに陶然となり、このようにうっとりと殺害者の風に聴き入り、
このように薄赤い花の戯れとなって吹き散らされ、
微笑みながら愛の宴から遠去かり、
このように別れを祭りとして祝い、
このように肉体を解脱して滑り落ち、
そして口づけのように、死を飲むことを。
(*注:これは散りゆく薔薇の詩である)
聖テレサ教会1ラオス・さばんなけっと
聖テレサ教会1ラオス・さばんなけっと

テレサにちなむ、黒い蝶が飛んでいた。
藤椅子に座っていた私の太ももに長い間止まっていた。
何度も、止まったし、何日も飛んできた。
わたしは、テレサだと思うことにした。感動を禁じえない。
この教会は、ベトナム系の様である。当局によって?薔薇窓はラオスだかベトナムだかの旗の5角の星の覆いをかぶせられていた。
観光用として、そのままの歴史遺産ではまずいと思ったのかどうか。とにかく意図が多い国である。

聖テレサ教会2 アルファからオームへ
アルファは鉾つまり男性を意味し、オームは受け皿・聖杯つまり女を意味する。フリーメーソンの思想、異端基督教の真髄と同じである。
しかし、真ん中の「p」が分からない。書籍をまた紐解かなければならない。
無学なわし。
華僑系からの、白人からの、また手先のラオ、タイ人たちからの激しい攻撃はつづいている。
近づく日本人は、日本公安の「基地外にしてしまえ」路線を簡単に踏襲する。ばかはどっちだ。

テレサにちなむ、黒い蝶が飛んでいた。
藤椅子に座っていた私の太ももに長い間止まっていた。
何度も、止まったし、何日も飛んできた。
わたしは、テレサだと思うことにした。感動を禁じえない。
この教会は、ベトナム系の様である。当局によって?薔薇窓はラオスだかベトナムだかの旗の5角の星の覆いをかぶせられていた。
観光用として、そのままの歴史遺産ではまずいと思ったのかどうか。とにかく意図が多い国である。

聖テレサ教会2 アルファからオームへ
アルファは鉾つまり男性を意味し、オームは受け皿・聖杯つまり女を意味する。フリーメーソンの思想、異端基督教の真髄と同じである。
しかし、真ん中の「p」が分からない。書籍をまた紐解かなければならない。
無学なわし。
華僑系からの、白人からの、また手先のラオ、タイ人たちからの激しい攻撃はつづいている。
近づく日本人は、日本公安の「基地外にしてしまえ」路線を簡単に踏襲する。ばかはどっちだ。
書き込みを規制している
書き込みを規制している
足首1cm焼かれた
足首1cm焼かれた。
あめ、だろう、犯人は。
某有名通りで後ろから。
しあえ、か。
あめ、だろう、犯人は。
某有名通りで後ろから。
しあえ、か。
書き込みの妨害2回
白人女の望遠撮影の事実をアップしても、乗らない。
20120812弾圧の近況電磁波攻撃
某所からコピー。20120812弾圧の近況電磁波攻撃
韓国系ネット・カフェでpassを盗まれた。(盗視かログ見)
passを勝手に変えられた。打撃を与えるために。ログインできなくなった。
勝共連合か、創価学会の息の掛かった店か。日本極右=やくざとつながっているのかもしれない。
タイでもラオスでもマレーシアでも、すべてひどかった。ずっと攻撃されている。眠らせない。今でも。電磁波攻撃で皮膚が陥没したり出血する、そこまで行かなくても足の指先を狙って眠らせないようにする。拷問だ。
華僑系列で回覧板が回っているようだ。写真つきで。封に巾と書いて「バン」、青バン、紅バン、客家(はっか)などがあって、台湾の蒋介石が国民党時代にも台湾時代にもこの「組織」を利用した。中国政府も利用している。
団塊の世代より少し上の世代の、旅行先輩の話だと、このバンは2000年の歴史があり、店の出資にも相談に応じるし、経営の仕方も教えるそうだ。
だから、華僑系のゲストハウスにはすべて手が回っている。深夜になると、爆音掛かり車1台、バイク2台ぐらいが出動し爆音を響かせる。もちろん、おれの寝入り情況を盗聴して聞いているという念の入りよう。
そして、ゲストハウスの宿六がおれと同じタイムスケジュールで飯を食って、深夜になって起きて来て、攻撃を何時間も実行する。眠れるわけがない。やつは昼間ねるのだ。
中国かアメリカ(他も関与)からも日本極右からも狙われ、四面楚歌。これはいったい何だ?アメリカや極右・カルトは分かるが、中国が噛んでいるとは、おれが麗君の暗殺説を表明したからか?上海からずっと中国系から嫌がらせを受けている。飛行機でも取り囲んで眠らせない。わざと触る、音を立てる、背中を押す、枕を落とす。
日本公安が実際こうした嫌がらせを、飛行機の中の隣りの座席で実行し、おれに摘発された(ことは以前にも述べた)。
韓国系ネット・カフェでpassを盗まれた。(盗視かログ見)
passを勝手に変えられた。打撃を与えるために。ログインできなくなった。
勝共連合か、創価学会の息の掛かった店か。日本極右=やくざとつながっているのかもしれない。
タイでもラオスでもマレーシアでも、すべてひどかった。ずっと攻撃されている。眠らせない。今でも。電磁波攻撃で皮膚が陥没したり出血する、そこまで行かなくても足の指先を狙って眠らせないようにする。拷問だ。
華僑系列で回覧板が回っているようだ。写真つきで。封に巾と書いて「バン」、青バン、紅バン、客家(はっか)などがあって、台湾の蒋介石が国民党時代にも台湾時代にもこの「組織」を利用した。中国政府も利用している。
団塊の世代より少し上の世代の、旅行先輩の話だと、このバンは2000年の歴史があり、店の出資にも相談に応じるし、経営の仕方も教えるそうだ。
だから、華僑系のゲストハウスにはすべて手が回っている。深夜になると、爆音掛かり車1台、バイク2台ぐらいが出動し爆音を響かせる。もちろん、おれの寝入り情況を盗聴して聞いているという念の入りよう。
そして、ゲストハウスの宿六がおれと同じタイムスケジュールで飯を食って、深夜になって起きて来て、攻撃を何時間も実行する。眠れるわけがない。やつは昼間ねるのだ。
中国かアメリカ(他も関与)からも日本極右からも狙われ、四面楚歌。これはいったい何だ?アメリカや極右・カルトは分かるが、中国が噛んでいるとは、おれが麗君の暗殺説を表明したからか?上海からずっと中国系から嫌がらせを受けている。飛行機でも取り囲んで眠らせない。わざと触る、音を立てる、背中を押す、枕を落とす。
日本公安が実際こうした嫌がらせを、飛行機の中の隣りの座席で実行し、おれに摘発された(ことは以前にも述べた)。
訂正20120812テレサ際立つメッセージ性と基督教シンボル
テレサ・テン鄧麗君概論
「20120727テレサ際立つメッセージ性と基督教シンボル」
<テレサ・テン鄧麗君への遠い遠い旅>
この文章は、今まで発表してきた誤りと思い込みの激しい「書き飛ばし」の多いブログ文章を概括した文章である。テレサ・テン鄧麗君に関してはこれで終わりとしたい。
この文章の中で言及した、メッセージ性に関するイヤリング・ブローチはたまたレコード・ジャケット写真などの画像はすべて存在する。あえて今回は、情報通信網の不安定さやわたしを付け狙っている集団の妨害などを考慮して、挿入しないこととした。ただ、機会があれば完全を目指してアップする。そうすれば、文章はより迫力を増すだろう。なんちゃって。
1、
わたしはテレサ・テン麗君の歌を身を入れて聴いたことはなかった。
彼女の活躍した1984年から1987年あたりまで、私は歌を聴くとか酒場に出入りするとかという生活を送っていなかった。そして、テレサ・テンも演歌歌手だろうと思っていた。
また、迂闊なことに天安門事件の前に中国の民主化運動支援集会で飛び入り参加し、痛烈な中国批判の歌を歌ったということも全く知らなかった。世事知らず、と言えばそれまでだが、しかしそうだったのである。
ところが、彼女が死んで間もなく私の兄が死んだ。故郷に帰ったわたしは、初めてテレサの歌も画像も見ることになった。
そうして、ある日、インターネットで彼女のファンが台湾まで行ってホームページで報告した、「黄色のロードスター」の画像を目にしたのである。ロードスターはスポーツカーとしては、安価で大衆化された人気車だったが、この黄色のロードスターは極め付けにかっこよかった。へえ、こんなのに乗ってたのかぁ、と思った。
それが鮮烈に記憶に残った。
偶然はつづくもので、エリツィン元大統領などのロシア語通訳者として活躍し、またエッセイでも歯に衣を着せぬ発言で人気を博していた米原万理さんが、あるエッセイで、たしかタクシーの中で、<テレサ・テンが中国語で「わたしの家は山の向う」を歌ったのを聴いたとき、身震いがした>と書いているのを発見した。
その歌を歌うことに依って発するメッセージは、痛烈な中国批判だったのである。
わたしは、あの黄色のロードスターを思い出した。そして、インターネットで本気でテレサ・テンの歌を、画像を見まくった。熱烈なテレサ・ファンのブログやホームページも見た。
彼女は決して演歌歌手ではなかった。インターネットで越境的に中国語の歌も英語の歌も聴くと、演歌歌手などというレッテルは吹き飛んでしまった。彼女は、小さい頃からの天才歌手だったし、英語もものするグローバルなポップスの先進歌手だったのである。
そして、わたしは、ある重大な事実を発見したのである。
それは、彼女が歌う歌全部が中国当局によって禁止措置の憂き目に遭ったとき、彼女がしたことは、レコード・ジャケットでそれに対する猛烈な抗議の意思を暗黙のうちに示したことである。
黄色の衣装に、磔のポーズ。これぞ中国当局が黄色(エロ)指定とした禁止措置への、逆手に取った揶揄の当てこすりだった。「磔にされたわたし」。わたしにとって、この「黄色のインパクト」は強烈だった。
その反骨精神の旺盛なこと、しかも機知に富んでいる。
わたしは、黄色のロードスターの意味を突然理解した。頭の中で、花火が爆発したようだった。ロードスターの発売はなんと1989年。あの天安門事件の、その年なのである。
彼女は、意図して買ったに違いない、と思った。この事件を忘れないために。しかも彼女にとっては由緒ある「黄色」の色で。(*じつは彼女の誕生色でもある)
あとで探索してみると、インターネット上のマツダのクルマの目録ではロードスターに黄色の色はなかった。ただ近い色では金色めいた土色があるだけだった。
わたしは、私の見た画像は幻影だったのか、思い違いなのか、と思って、そのブログを再度懸命に探したがもう突き止めることは出来なかった。
わたしは、自分の誤りだと思い直した。しかし、のちのちわたしは実物に遭遇したのである。
わたしが自分の命を守るために東南アジアに飛び出したとき、わたしはラオスに入った。そこで待っていたのが、この黄色のロードスターだった!やはり実物はあった!!
私を尾行し私の行動を熟知している(文章も含めて)何者かが、これ見よがしに実物を見せに来たのは明らかだった。彼らは私を見張っていた。ナンバーは「云南(雲南)」。ラオスの最北の国境に接する、山がちな中国の地域(省)である。
その目的はなんであれ、わたしにとっては自分の記憶の正しさを立証したものだった。
わたしは、こうして彼女の「意思性」とあの空に溶けるような美声に惹かれて、数々の疑問の不思議な迷路のような探究の旅に出た。
2、
そうして次に発見したことは、彼女が日本で唯一大掛かりに開いたコンサート、NHKコンサートで展開した衣装がキリスト教的な意味を持っていることだった。
ミミズの這い回ったような、真紅の地に白のくねくね巡る糸線の模様の上衣と、真紅一色のロング・スカート。これは情熱の赤だ。そして糸の紋様は迷いや煩悶の遍歴を表わしている。
しかし、彼女は幕間にこれに黒一色の腰マントを付けて覆い、歌うのである。これは一体なんだ?
真っ先に浮かぶのは、スタンダールの「赤と黒」。中国では文革中、禁止図書の一覧に入れられ、焚書の処分の対象になった本である。しかし、スタンダール本人は極めて真面目に「恋愛」を書いていた。世間の規制的な道徳を嫌っていた。
この本の一般的な見方は「出世意欲にからんだ恋」である。しかし、読んだ限りでは、そうした穿った見方は偏見的ではないかと思われる。スタンダールは、キリスト教的な煩悶にそそのかされて密告し、主人公を死に追いやる「体制(世間)」と悲劇を、描いたのではないかと思われる。
本人たちにとっては、恋は真面目で一直線なものだ。スタンダールの「赤と黒」の題名は比喩で、赤は情熱や色恋、黒は悲しみや喪を表わしている。この小説の主題を一言で言うなら、「許されぬ恋」。
まさにテレサの私生活そのものではないか!前年の1984年に郭氏との婚約は正式に解消になった。彼の祖母には芸能界からの引退やそれまでの交友関係との断絶など厳しい3項目の要求を突きつけられていた。
だから、この赤と黒の衣装は、自分の恋の境遇を自嘲的に表現し、かつ彼の祖母を含む世間になお残る歌手への差別的な見方に対する批判と暗喩をしてみせたものだ。
まさに「許されぬ恋」だ。郭氏の家族にはそのままではテレサは「許されなかった」のだから。わたしは、これを黄色のインパクトに次ぐ、赤と黒のインパクト、とさえ名づけたい、と思った。
その自嘲的な自己の恋の遍歴は、ミミズ這いのような白い糸線のくねくねの軌跡にあたかも表現されており、ひるがえって黒のマントで覆うことは、スタンダールの「赤と黒」の「黒」の意味、悲しみと喪を意味した。だから、赤のドレスに黒の腰マントは、<自分の破恋の象徴的衣装>でもあったのである。
この逆襲、この揶揄的総括!彼女は賢い。
しかも、偶然なことに、その赤を黒マントが覆うという表現は、日本の仙台の博物館に所蔵されているという名画「シメオンの剣・悲しみのマリア」と、同じ色と形であり、テレサの「黒の腰巻マント」はまさに「悲しみのマリアの黒マント」だった。
彼女は、これを知っていたのだろうか。くしくも、彼女の日本での最後の歌唱は、1994年仙台のNHKチャリティーコンサートだった。(このあと彼女はチェンマイに帰り、そこで死んだ)
この「赤と黒」にはもっと深い意味が隠されていて、それはマグダラのマリアに関することである。どうしたことか、「改悛するマグダラのマリア」の絵画では、たいていマリアは赤のスカートに白のブラウスの衣服を着ている。
異端審問は、聖母マリアの絵画を見て困惑した。着せられていた赤のマントはマグダラのマリアを意味していたからだ。マグダラのマリアは売春婦だったから、キリストによって改悛したとされている。だから、聖母マリアの「聖性」を強調するため、つまり結婚や「性」性を否定するためにマグダラのマリアを思わせる赤色を禁止した。
そして、美術検閲官は1649年、処女マリア像をすべて「青と白」で統一するように勅令を出した、という。ほんとは、マグダラのマリアはキリストの妻だという説さえあるというのに。
売春婦の色は、こうして「赤」とされてしまった。ひるがえって、テレサの衣装の色の表現はどうだろう。歴史的に発祥とその成立の過程はどうであれ、歌手に対する侮辱的見方は実際存在していた。だから、彼女の衣装は、それへのこれ以上ない切り返しだ。
黒の腰マントは聖母マリアの悲しみのマントにも擬せられ、彼女の深い悲しみを表わしていた。
3、
コンサートの衣装は、ここから葡萄を思わせる薄紫のチャイナ服、そしてメタリックな空色のミニ、透けても見えるまた真紅の下広がりのドレス、そしてアンコールでは純白のウェディング・ドレスへと展開する。
この色の展開は、じつは聖書をなぞっていたのである。
(詳しい説明は別の論考でしたので省くが、おおまかには次のとおり)。
「旧約聖書・イザヤ書第1章18.
<主は言われる、さあ、われわれは互いに論じよう。
たといあなたがたの罪は「緋(ひ)」のようであっても、雪のように「白」くなるのだ。
「紅」のように赤くても、「羊の毛のように」(白く)なるのだ。>
糸線の這った真紅は「緋色」であり、透けた真紅は「紅」だったのである、聖書の表現の。最後のウェディングの白はもちろん、雪のような、羊の毛のような白、なのである。
ドレスの形でさえ、彼女は聖書をなぞっている。透けた真紅のドレスの形は、トランペット・フラウアの花のよう。トランペットが逆さに吊り下げられたように咲くのが、この熱帯の花。
トランペットは、ファンファーレを意味し、次のウェディングを予報しているのである。うなるではないか。彼女は一流のアーチストである!
中間の紫は、キリスト教的には葡萄を表わし、キリストの血の比喩でもあり、彼女の香港の自宅は守護の色・紫で塗られて「紫の館」と言われた。メタリックな空色のミニでは、米国歌ナンバーの「the power of love」や「I just called to say I love you」が歌われる。それは、力強い生命讃歌、人生讃歌となっている。蛇足だが、青はオルゴン・エネルギーの色なのである。
色だけでなく、衣装の形でさえトランペットの形で分かるように意味をなしている。そして、最後の衣装の、純白のウェディング・ドレスで彼女は「ジェルソミーナの歩いた道」を真っ先に歌うのである。歌の配列でさえ意味がある。
騙されて結婚させられたジェルソミーナは、裏切られても裏切られても夫に尽くそうとする。これは感動を読んだイタリア映画を下地にした歌(日本版・作詞・門谷憲二、作 曲・丹羽応樹)。
具体的には、1954年のイタリア映画「道」で、ジェルソミーナは「精神薄弱」と設定された女主人公である。懸命に「夫」に尽くそうとするその無垢な精神が、最後まで貫かれる。
この映画のテーマは、夫に尽くすということにあるのではない。旧道徳的な「献身」でもない。それは本物の主題歌に表現されている。主題歌は「 "La Strada" by Nino Rota」、『ニーノ・ロータの「道」』。ニーノ・ロータは映画「ゴッド・ファーザー」のテーマ曲を書いた人。
副題は<Gelsomina de Amigas de Verdade>=「バルデーダの友ジェルソミーナ」なのだ。
あくまでも「友」として懸命に尽くしたジェルソミーナ。この「友」という言葉は非常に大事な言葉、意味深な言葉だ。
簡単に表現されるが、キリスト教的にはよく歌でも「a friend」とあり、親友とも取れるし、キリストとも取れるのである(あとで英語歌「careless whisper」の項目でも論旨を展開する)。
だから、この「友」の本当の意味するところは、決して裏切らない、決して離れない、「愛(慈愛)の友」という意味なのである。まさに神だ、キリストだ。
だから感動を呼んだのだ。監督が企図したのはそこだろう。ここに、テレサの思いをみる思いがする。
テレサは、じつは敬虔なキリスト教徒だった。それは、コンサートで付けられた、彼女のブローチからイヤリングまで、すべてハートの形や十字架など、すべてキリスト教のそれだったことから分かる。
(その証明は、彼女を少女時代まで衣装からブローチ、レコードジャケットまで通覧して、いよいよ決定的になった)。
コンサートの全体像は、明らかに聖書のキリストの言葉をなぞっていたのである。
しかし、コンサートの芸術的側面はそうであれ、彼女にとっては、こうして架空の結婚披露を演出して見せたことで、私生活的に、前年婚約正式解消で受けた痛手を乗り越えて、心の踏ん切りをつける意味もあったのだろう、と思われる。
それは、非常に悲しい、人生のエポックと呼んでもよいぐらいの残酷な心の踏ん切りだったかもしれない。もしかしたら、彼女は「結婚」ということすらひそかに断念していたかも知れない。
同じ1985年夏の日本民放のインタビューで、彼女は「結婚、難しいですね」と述べている。歌手だから、と。
わたしは、このNHKコンサートによって、彼女の信仰の深さを見たような気がした。そして、このあと彼女の動画の中から、、次から次とその証拠となるようなキリスト教的なイヤリング・ブローチなどを発見していく。
4、
1989年中国民主化支援集会での「わたしの家は山の向う」、1984年「つぐない」ジャケットの「黄色の磔」、1985年の「聖書をなぞった衣装構成」NHKコンサート。
この三つのメッセージ性を、時代の前後に関係なく発見したことは、わたしにとって意図しない驚きだったし、また次の「表意」の存在をうかがわせた。
やはり、あった。それは。1983年はじめに発表の中国古典詞詩特集「淡淡幽情」である。
上記のメッセージ性事象の前ふたつが政治的だとすれば、この歌集ももろにその範疇に属し、まさに「政治プロパガンダ」とさえ言えるものだった。
この歌集は、古典詩歌に曲をつけたことによって、新しい試みとして日本の音楽評論家などにも称讃され、台湾などで賞を得るなど高く評価されているが、わたしはそんなのは浅い見方だと思う。この中に、収録されている歌が果たして歌い継がれていますか、と問いたい。そうではないはずである。
問題は、そのレコードやCDに挟まれていたブックレットやリーフである。
普通は、レコードに収録の歌の歌詞などそっけなく記載されているのがおちだが、これは違った。古典の宗詞唐詩の解説がやけに詳しいし、暗殺されたという皇帝の事実までばっちり示されている。
過去を懐かしむ、という詩人が殺されてしまうのだから、これとて中国批判を意味していないはずはない。過去とは、共産党が政権をとる以前の体制のことなのだから。
彼女の歌手としての経歴をつぶさに見るならば、彼女の家族の台湾へ渡った経緯や家族構成によっても、彼女が台湾当局の政治路線に沿った動きをしているのが分かるだろう。
だったら、この「淡淡幽情」は、その色彩は政治プロパガンダなのだ。音楽的にのみ「新しい試み」として見ることは、その別の側面を見落とし真相を隠すことになる。
真実は明らかでないが、彼女は16歳の時に外遊歌手活動の許可を得るために、台湾の情報部署である「三処」への協力を約束させられた、と言われている。これが、テレサ・スパイ説の根拠となった。
もしそれが本当だとしたら、出来る範囲内での協力はするという役回りで、スパイまではいかなかったろうと考えられる。このスパイ説の流布については、かつて彼女のマネージャーもしていた母親が猛烈に反論している。
「わたしが四六時中そばにいるのに、どうして連絡を取り合ったというんですか。そんな事実はまったくありません」。
しかし、この情報機関協力員説を消し去ったところで、1979年偽造パスポート事件によって日本から米国へ国外追放されたテレサが、1980年に台湾当局への協力(軍慰問コンサートの開催など)の約束と引換えに、台湾に帰国し、さっそく1981年に中国本土と対峙していた金門島の最前線基地を訪問し、大陸に向けて「放送」したこと、軍慰問のコンサートを開いたこと、は確かなのだ。
彼女の歌手活動がそもそも政治的色彩を帯びていることは消しようがない。追って記述していこう。
テレサら中国本土から渡ってきた中国人を台湾では「外省人」と呼び差別した。テレサ自身も、小さいころ教師による厳しい扱いを受けたという差別の経験を話してもいる。
帰国してから軍に協力して歌うテレサを、口の悪い台湾人は、「歌う公務員」とさえ言った。今でもテレサを嫌いと公言してはばからない人もいるのは事実だ。
彼女自身、父親は国民党軍人だったし、兄のひとりは現役の軍人、またもう一人の兄は国民党機関紙記者、またもう一人は軍の出資するテレビ局員という家族を持っていた。政治思想的にも似てくるのは当然といえよう。
台湾は当時、いつか機を見て「大陸反攻」という路線だった。戒厳令もずっと敷かれていたし、取締りや弾圧も厳しかった。この様子は、テレサを侮辱しているととれる「何日君再来」平路著の本の中でも記述されている。その中での歌手活動である。
1982年、1983年と彼女は香港でコンサートを開いているけれど、コンサートの最後を締める歌は中華民国のナショナリズムチックな「梅花」と「中華民国頌」だった。
1970年代後半から中国本土でも人気の鰻登りだったテレサ麗君は、1983年に本土から押しかけた中国軍幹部らを目にし、いきなり「中華民国頌」を歌って、彼らを怒らせ立ち去らせてしまった。
彼女にとっては中国を共産化している当該の支配階級の共産党幹部ばかりだったし、本当に自分の歌を聴いてもらいたい中国の大衆ではなかったからだ。
彼女が軍慰問での清唱で「何日君再来」を歌ったとき、いつ君はまた帰ってくるの、と歌う場面で、彼女は「来らい」と「来」を2度重ねた。そして感極まり言葉に詰まって声を呑んだ。その「来らい」とは、中国が自分たちの手にいつ戻ってくるのか、という意味でもあったのだ。
金門島放送、台湾軍慰問コンサート、愛国チャリティーコンサート、と来て、1983年、着々と準備していた中国古典詩への歌曲化「淡淡幽情」の出番となる。
昔を懐かしんだ皇帝の暗殺を背景にもつ歌(獨上西樓)の収録は、その解説の記述の細かさにも証明されているように、暗喩に満ちていてもろに「政治プロパガンダ」のビラの如しだった。これは台湾側による、情報プロパガンダである、とわたしは思う。
その歌集の成立の経緯は、つまりテレサのファンがそうした古典詩に曲をつけて楽しんでいたという話を耳にしたテレサが、ひらめいてプロのプロデューサーに詞詩の作曲化を依頼した、ということになっている。
わたしは、時系列的に見てもこれはこれは台湾側の情報戦の一環だと思う。金門島放送が1981年で、その後彼女の音楽テープが風船に括り付けられて大陸本土に流されたという事実、そこから間隙なく1983年初頭のこの歌、である。その政治的色彩は隠しようがないではないか。
本土でのテレサの人気は1980年ごろに爆発的に上昇したという。彼女の情報員としての(もしそうなら)力は、当局も黙過できないほど強力なものだった。だから、ある著述でもテレサは「超ど級の情報兵器」だった、と書かれるわけである。
慌てたのは中国当局である。年も押し迫った1983年10月、小平が講話によって精神汚染としてこの批判の口火を切り、それに追随して軍機関紙が精神汚染「酒場音楽」批判の論陣を張って、テレサの歌全部を禁止してしまった。
テレサの歌は1979年あたりからたびたび規制禁止されたというが(1981年にはテレサの歌は「扇情的」で「反動的」だ、との理由で通達が出され、中国公安部、教育部、中国共産主義青年団など五つの中枢機関によって歌のテープが取り締まられた)、上記の禁止がこの「黄色指定」なのである。
1983年に「淡淡幽情」を出した途端に「精神汚染批判」が中国側から出されたことは偶然であろうか。そうではあるまい。
この厳しい「言いがかり」と差別的論調は、テレサをひどく怒らせた。彼女はそれに対して反骨、反論を示すことにした。それが、日本再デビューの曲に決まった「つぐない」レコードの<黄色衣装・磔>のジャケットである。自分が磔にされているのだ、という揶揄である。
一連の出来事は個別ではなく、繋がっているのである。
テレサの「メッセージ性の事象」を、わたしの気づいた順ごとに記述しているが、その事象を時系列的に整理しな直し、さらにテレサの年表と照らし合わせると、一層その政治的色彩が濃いことが分かると思う。もうひとつ興味深い事実をあげよう。
1982年、彼女はコンサートで中国語で「昴(すばる)=中国歌名『星』」を歌う。ここで、彼女は左手で天を指差す。
中国歌では、元歌にはない「平和」という文字が歌詞となって歌われている。テレサがあえてこの歌を取り上げ、歌った意味は何か。
中国の政治情勢をよく注意してみるならば、それは多くの悲劇を伴なった、あの文化大革命が、1976年から小平によって口火を切られ終息し、平穏を取り戻した時期に当たる。人びとはようやく心の平安を持つに至った。
それがテレサ麗君の爆発的ヒットを生む背景となっているのだが・・。
わたしは、この「昴=星」をテレサがあえて歌った意味は、あの文化大革命の膨大な犠牲者への鎮魂、ではないかとひそかに思っている。
彼女は、初めは声小さく始め、最後には、左手の人差し指を遠慮がちに天上(星=犠牲者)を示して見せて、高らかに歌った、「われは行く」と。
5、
テレサに関しては、かつてロサンジェルスで恋仲だったと言われるジャッキー・チェンの証言にもあるとおり、物静かな人という先入観がある。香港だか台湾だかのtvで政治討論会番組に出席したテレサは、その動画を見る限りひと言も発しなかった。
静かな人というのは事実だろうが、しかし、だからといって、彼女が政治に無関心だったかというと、そうではあるまい。
兄らと苛烈な言い合いをしていたという身内の話もあるし、のちに中国がテレサへの対処方針を転換しテレサとの接触を図って新聞記者が香港の自宅に誕生日に電話を掛けインタビューした際には、社会マナーの向上に中国が取り組んでいるのは素晴らしいことですね、と言っている。
加えて<本土のことはいつも熱い思いで注視しているのですよ>と語っていることからも、海外に住む中国人として共通の強い関心を中国の情勢に注いでいたことが分かる。
1987年に知り合い、1988年からテレサの暗黙の要請で彼女のレコードの制作担当となった鈴木章代女史の著書では、テレサが中国の民主化運動や香港の返還に関して熱い思いでいたことが生々しい事実とともに語られている。
だから、である。彼女の数々の動画は、政治的な側面でも彼女の積極性や能動性を十分語っている。
「何日君再来」で「来らい」と2度重ねた場面、1983年香港のコンサートで中国本土から来た軍服姿の一団を怒らせた場面、黄色衣装の反骨精神、などなどその証拠は挙げればきりがない。
1989年の天安門事件のあと、自分の集会への飛び入り参加が事件へ何がしかの悪影響を与えたのではないか、という自責心から、来日を中止していたテレサは、10月なってようやく来日し、自分の「メッセージを伝えるために来ました」と明白に空港で語っている。
そして、そのTBS「愛のデビュー15周年」(日本での)で、彼女の側からメッセージ伝えたいとの積極的な提案があったのである。
彼女は、香港あるいは海外、中国本土の中国人同胞に伝わることも考慮して、重要なメッセージを発した。
それは天安門事件を引き起こした中国当局への抗議でもあったし、自分の考え(思想)の表明でもあった。
「私はチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活していても、私はチャイニーズです。だから、今年の中国のできごと全てに、私は心を痛めています。中国の未来がどこにあるのか、とても心配しています。
私は自由でいたい。そして、全てのひとたちも自由であるべきだと思っています。それが"おびやか"されているのが、とても悲しいです。でも、この悲しくてつらい気持ち、いつか晴れる。誰も(が)きっとわかりあえる。その日がくることを信じて、私は歌っていきます」。
これはメッセージ性ではなく、メッセージそのもの。暗喩も比喩も揶揄もなしに、直截的な彼女の心情の訴えである。これ以上ないメッセージ、政治性の枠をも突破している熱い思いだ。
わたしは、彼女の政治的立場は煮詰められておらず、資本主義のステレオ・タイプの社会主義批判の型を脱してはいない、という立場だが、<わたしは自由でいたい。そしてすべての人たちも自由であるべきだ>との考えには、もろてを挙げて賛成する。
彼女のメッセージは、万人にとって、重要な討論のたたき台であるし、自由の考察へのヒントになるべき性質を持っているのである。
わたしは、自分の小論でその「自由」に関して資本主義も社会主義も統制的資本主義である点では、どこに政治の重点を置くかによって度合いの違いがあるにしても、経済システムとしては似たようなものだ、という考えを持っている。
(中国の小平に始まる改革開放路線、それに追随するヴェトナム、ラオスなどの「社会主義から統制的資本主義」への転換と導入)
わたしは別の論考で、彼女の「自由のメッセージ」と、彼女が大陸に向けて1991年に放送した「チャンスの自由」に関して、カラシニコフ小銃の発明者のカラシニコフの著書から彼の言葉を対照的に引用した。
彼はレーニンを誉め、あの当時の熱い革命の思いを語った。そして、<肝心の「チャンスの自由」こそは社会主義である。すべての人がスタート地点が平等であるべきだ>と語った。
だれの言葉かと見がもうぐらい、テレサの「自由」の発言と共通している。カラシニコフは社会主義の良い点は確かにあった、と語っている。詳しい展開は別の稿に譲るが、いかにソビエト(ロシア)に関して歪んだ情報が西側世界に満ちているか、その小著の解説でも触れられている。
たしかに、ウィルヘルム・ライヒなどの著作やチェコスロバキアから追放された先進的映画監督などの話をみると、結婚や性の変革に関して、ソビエトではのちのヒッピー文化や新左翼のムーブメントよりはるかに先進的な試みが行なわれていた、のである。
6、
テレサのメッセージは、その1989年TBS「愛の15周年」のパフォーマンスそのものにもあった。
彼女は、歌の前半と後半で真紅から黒へ(まさにスタンダールの「赤と黒」あるいは「シメオンの剣・悲しみのマリア」と同じ「赤と黒」)ドレスを転換した。
赤は愛であり、流した血の色。ドラクロアが描いた「民衆を導いた「自由」」のフランス国旗の赤。中国でもヴェトナムでもラオスでも解放や社会主義のために流した血を表わす、あの真紅の赤。
彼女は、衣装で中国の民主化運動のために犠牲になった若者の血を表現しているのである。そして、続いた「黒」は悲しみ、追悼、喪である。
そればかりではない。
彼女は、腰に大きな蝶の宝石ベルトを付けていた。その蝶は、台湾の象徴でもあると同時に、死者の魂が蝶となって舞う、霊魂の依り代をも表わしている。
彼女は悲しい自由化運動とも受け取れる歌「悲しい自由」を歌うとき、左手を高々と天上に上げた。そして、がっくりと手を振り下ろした。繰り返される「ひとりにさせて」というフレーズだった。それが、彼女の悲しみをよけい痛切に表現していた。
天上に挙げたそれは、天上に昇った天安門事件の犠牲者を意味したし、振り下ろした腕は彼女の悲しみを表現しているのである。彼女は泣いていた。そのパフォーマンスは、単に演技ではなく、直截的な彼女の心情と一体となった、究極のものだった。
(彼女は、この来日でのtv収録で1982年に歌った「昴=星」をまた歌った。今度の「星」は天安門事件の犠牲者を意味した)
別のtv局の番組でも、彼女は黒い蝶のイヤリングを付け、黒い喪服で歌った。
南こうせつと「神田川」を歌ったとき、「若いときは何もこわくなかった」というフレーズに差し掛かると、彼女は目をパチパチいわせて歌った。彼女には、そのフレーズがまさに自分の過去を表現し、そのとき瞬時に過去の思い出が走馬灯のように蘇り、心に去来したのだろう。
実際、彼女は1981年から1983年へと大陸へメッセージを届け、黄色の反骨を示し、1989年中国の民主化運動のために集会(政治)に飛び込んでいったのだから。そのとき若い彼女に何もこわいものはなかった。
7、
テレサ・テンにとって勿論歌こそが天命といえるものだったけれど、ほかには恋と思想の出来事は両輪のようなものだった。ふたつを携えていた。彼女の恋と結婚は悲劇に終わった。しかし、それは彼女の人生を考える上で欠かせないものである。
わたしは、彼女の歌唱のパフォーマンスの中に、恋の、自分の恋のメッセージをも見てしまった。
彼女は「泣き虫」だったという。その言葉からわたしは、動画をくまなく探し、テレサ涙の小史と題してとりあえずまとめてアップした。
そこには、彼女の人生の反映があった。
エンドレス・ラブを初め数々の恋の歌を歌うに際し、彼女がたびたび泣いていたし、「何日君再来」でも彼女は1番と2番の歌詞の間にあるはずの、科白(せりふ)を言えずに無言で通したこともある。感情がのど元までこみ上げて来ていたのである。
「何日君再来」を歌う直前、彼女は台詞を言った。「家族で星を見ました。この歌を歌うたびにそれを思い出します」。歌い終えた彼女の両目のはじには涙がいっぱい溜まっていた。
歌は彼女の私生活を反映していたし、彼女が込めた情感は実地の経験に裏づけされていた。
1984年婚約を解消し、1986年にはシンガポールから活動の拠点を香港に移し、「紫の館」といわれる自宅も購入した。日本で84年から再デビューした彼女は、軒並み3年連続、東西の有線の大賞をとってしまうグランドスラムを達成した。この記録はいまだ誰にも破られていない。
また、1987年東の有線の大賞を「別れの予感」でとり、4年連続受賞とした。
(この曲は例年と違って遅く6月に発売になって、いつもよりハンディを負っていたから、一方の大賞を逃がしたのは仕方なかった。遅れがなかったら、4年連続東西有線の大賞をとっていた可能性もある。しかし、海外のリクエストではナンバー・ワンだという書き込みがある。題名が「襟曲」(意味=心の内の歌)と決まっていたが、中国語化はされず中国歌としては発売されなかった)。
1984年、再デビューの最初の年、日本で出演して間もないころ、彼女はtv局の収録で白の肩掛けの帆布のようなざっくりした布を、ショールのように上半身を覆って、しかも船員帽をかぶって登場した。ショールと呼ぶには厚手の布地である。
そして、珍しいことに黒の皮手袋さえはいていた。これは何か。なぜなのか。黒は悲しみの暗示ではなかったか。手袋をはくのは、テレサとしては初めての部類に属するパフォーマンスだった。この時は。
彼女の歌い方は弱々しく、あのNHKコンサートやそれ以前に見せていた歌のクライマックスでの「ガッツポーズ(こぶしを握る)」はあるかないかの小さなものだった。彼女の当時を語る関係者は84年は彼女は元気がなかった、と述べている。
さもありなん。彼女は婚約の正式解消という悲嘆に直面していたのである。香港や台湾あるいはタイ、マレーシア、シンガポールで1983年末から1984年の1月にかけて彼女は、自身のデビュー15周年(日本の15周年記念とはちがう、幼いころのデビューから数えて)コンサートを巡回で開いていた。
それが終わって、ひと息ついたころに、彼女は私生活上の難題・婚約解消に着手していった。そのとき、彼女には、1983年からの中国本土での「黄色指定」という彼女の歌全部を視聴禁止した措置が、追い討ちを掛けていた。
わたしは、その帆布と船員帽に「パリ」を見た。パリの市章は帆船なのである。パリは、セーヌ河の中洲シテ島で始まった貿易を端緒とする。帆布のざっくりした上半身覆いはまるで帆船の帆のようだったし、その船員帽は帆船象徴の布地とあいまって「船出=旅=別れ」を意味した。
彼女は、パリ行きを暗示していた。じっさい、彼女は1983年にパリに立ち寄ったとみられる(推測)。なぜなら、上記の巡回コンサートですでに十字架や薔薇やハートのイヤリングを付けていたからだ。また、次の年1984年の来日には「パリ」という香水をつけて登場している。
パリは、婚約時かそれ以前、郭氏と一緒に訪れていた思い出の都市なのである。それは、パリのレストランの女主人が証言している。
この時のテレサの心境は、この帆布・船員帽の歌唱とともに、日本語化された「ニイ(あなた)」という歌に結実されている。そこにはパリに逃げた悲しみが歌われていた。(パリ訪問は1986年や1987年にも行なわれた可能性がある。レコードジャケットの撮影写真がそれを物語っている)
1984年再デビューとして来日したテレサは、徹子の司会の歌謡番組で、彼女は彼女ののちのトレード・マークにもなった香水「パリ」を付けて登場した。(聖母マリアを象徴する薔薇が主成分)。
おそらく、東南アジアと中国本土で成功を収めていた彼女は、日本での再デビューでこれほどまでに人気を博し賞を総なめにするとは自身も思ってなかったのではないか。
だから、「つぐない」を歌うときにも、いつも歌うときに頻繁に見られたあのガッツポーズ(クライマックスで握りこぶし)に弱々しさがあった。
しかし、彼女の歌「つぐない」によって、不動産の貸し部屋物件で西陽の当たる部屋が女子学生の間でブームになるほどだった。その人気沸騰はものすごかった。徐々に彼女のガッツポーズは復活した。
次に、恋への関連を窺わせるものは、1985年NHKコンサートの中の英語歌と1986年の映画にちなむ英語歌、1988年の「ニイ(あなた)」日本語版である。
彼女は、再デビュー来日3年目の1986年「時の流れのままに」を歌うステージで、英語歌の「THE WAY WE WERE」(映画「追憶」の主題歌)を歌った。
その中のフレーズ。
「ねえ、わたしたち、もう一回やり直せる?」。
ふたりの思い出はきれいな色彩だけが残っている。私たちが確かに「居た」あの道。これは悲しいまでの、彼女の彼に宛てたひそかなメッセージではないのか。
この「THE WAY WE WERE」という歌は、テレサの1977年(往日情懐に収録)24歳の歌なのである。なぜ、この歌をいまさら再度とりあげたのか。テレサは。意味があるにちがいない。
彼女は、郭氏への思いをまだ断ち切れずにいたのではないか。
しかし、郭氏はこの歌の翌年1987年にテレサ似という日本女性と結婚してしまう。テレサの縁復活の夢は完全に断たれてしまった。
1988年、レコード会社の制作担当だった鈴木章代女史はテレサに所望されてマネージャーのような役割を受け持つことになった。その最初の親交で、テレサは郭氏を本当に好きだったこと、歌手の引退を考えていること、子供を生みたいという願望まで打ち明けている。
帆布と船員帽のことで上記に触れたように、テレサには「ニイ(あなた)」という不思議な日本語の歌がある。(*■20110227テレサ哀しみの歌「ニイあなた」参照のこと)
彼女が1970年17歳のとき中国語で歌った曲の日本語版である。しかし、日本語の歌詞は採譜が信楽順三さんとなっていて、作詞は山上路夫さん。
これは、中国語の歌から日本語の歌へ作り直した、ということである。しかし、いつ?残念ながら、時期を特定する決定打がない。
台湾の歌「夜雨花」の採譜と日本語歌詞を、同じ信楽さんに頼んでいることから、同じ時期つまり1988年ごろではないか、あるいは前年の1987年ころではないか、と思うのだが。
であるとすれば、これはまたまたテレサの隠れたメッセージである。彼女はこの歌を1988年5月に歌っている。
「ニイ」の歌詞は、要約すると見知らぬ国へと来たわたし(フランス)、忘れたくて来た。でも、河のほとりを歩き(セーヌ河)、古いチャペルの音の鳴る街を歩いておしゃれな店をのぞいても、何をみてもあなたのことを偲ぶ。忘れたくて来たのに、思いがつのる、あなたの胸に帰りたい。涙で街がうるむ。
全然要約になってないが、ご容赦。上記に書いたが、パリにはテレサは郭氏と一緒に来ているのである。またとないシチュエーションではないか、この歌の歌詞は。
これがもし彼女が放った隠れたメッセージだとしたら、郭氏はたいした幸福者である。これほど想われるとは。
「THE WAY WE WERE」といい、この「ニイ」といい、なぜこの時期にこの歌を、という疑念がいつまでたってもアタマを去らない。
彼女の、従来からの歌を選ぶ手法から考えても、無作為にとはとても思えないからだ。そのメッセージ性、表意性の存在はそれを抜きにしては彼女の歌はありえない。
恋のテーマにしても、メッセージ性はたしかにあったのではないか。涙の小史は、その私生活上の歌への反映を証明しているではないか。
8、
メッセージ性は縷々述べてきたが、もうひとつ気になる虎柄のメッセージがある。
1986年12月、髪をばっさり切ったテレサは、TBSで(東京での東の有線大賞の席上)緑の地に黒の縞線の虎柄の長手袋で「時の流れに身をまかせ」を歌った。
歌の終わりの場面で、彼女は、マイクのある方の手に虎柄のもう一方の手を引き寄せて祈るように合掌するのである。なぜ虎柄なのか。
調べてみて愕然としたが、これには意味があったのである。新聞報道でも明らかなように、当時ボルネオやインドネシアなどで、森林火災が問題となり、焼畑が原因と言われた。
テレサが虎柄の長手袋をはいて歌った、この同じ1986年、国際熱帯木材機関(ITTO)が設立されている。
しかし、あの当時、インドシナ半島のベトナム・タイ・ラオスなど、はたまたインドネシア、カリマンタン島(ボルネオ)のマレーシア・インドネシア、フィリピンでは毎年森林火災が相次ぎ、アジアの虎が絶滅の危機に瀕していた。ニュースでも煙の上がる衝撃的な映像が流れた。
虎好きのテレサは、その報道に心を痛めていたに違いない。彼女は、その虎の居る地域、そこに実際居住して歌手活動をしていたのだ。
1985年までシンガポール、1986年以降は香港。デビュー15周年記念公演は1983年から1984年である。場所は、東アジアの各首都だ。
だから、緑の虎柄は<虎の棲む森を守ろう>という、隠れたメッセージなのである。
(*ちなみにフィリピンのある女性学者の研究論文によると、この森林火災は焼畑が原因ではなくパーム油をとるための椰子プランテーションの拡充によるものだ、という指摘がある)
またまた、隠れたメッセージである。こんな小道具ひとつを使って思いを込める歌手が他にいるだろうか。
彼女は、目を大きく見せるようにしましょうといって、アイシャドウの塗り方まで自身で気を配っていたというから、衣装をみてもそのとおりで、全部意味があるのである。
いちいち証明はしないが、衣装の形から縫いこまれた刺繍に至るまで、薔薇や百合、あるいはチューリップというキリスト教に関係する象徴の図柄がふんだんに使われている。
画像を見て、次々発見されるその証拠に、わたしは驚き、愕然とした。これほどまでに、と。
彼女は貪欲だった。tvという現代の一番の表現手段と舞台にあって、それをフルに活用しようと、衣装からイヤリング、その歌唱の動作(合掌しかり、腕を天上にあげ振り下ろす仕草しかり)に至るまで完璧に表現した。
彼女が一流のアーチストであり、メッセンジャーである、という何度も力説する理由はこれである。彼女の声の美しさ、歌唱の技術の素晴らしさばかりではないのだ。
ちなみに、テレサの中国人のファンは、彼女がまったく声の息継ぎ音をマイクに拾わせることがない、と驚嘆の声をあげている。これは、ある熱心な女性ファンによると、発声方法の工夫と精進のたまものなのだ、と言っている。
傾聴に値する意見だと思う。なるほどそうなのである。ほかの歌手の場合と比べてごらんなさい。
9、
1985年、つまり婚約解消の次の年、英国でのサマースクール留学2年目を過ごしたこの年の暮れ、テレサは満を持して日本で最初で最後の最大のコンサートをNHKホールで開いた。
空色のメタリックのミニに、黒眼鏡をかけたナウい彼女は、この衣装で一連の英語歌を歌った。その中に、前年1984年に流行った英国Wham! のジョージ・ミッチェルの曲「Careless Whisper(支えようのないつぶやき)」がある。
この歌は、1984年に全英国・全米でヒットチャート1位になった曲という。彼女は乗りに乗って歌った。バックの黒人コーラスもよかったが、彼女はどうしたわけかワムのミッチェルとちがって、うめくような歌い方ではなく、どこか怒ってでもいるような激しい歌い方をした。
そして、歌詞の合間には両手で自分のからだをだき抱きしめるパフォーマンスを見せた。これはよく見ると一方が肩に、一方がウエストに掛かっているのである。これは、チークダンスの擬態だ。歌の内容を表現しているのである。
ことほど左様に、テレサは芸が細かい。意味のある動作や挙動をするのだ、歌っているあいだに。
肝心の歌詞である。
わたしは、次のフレーズに神を見た。
I'm never gonna dance again
Guilty feet have got no rhythm
Though it's easy to pretend
I know you're not a fool
Should have known better that
to cheat a friend
And waste the chance that I've been given
So I'm never gonna dance again
The way I dance with you, oh
<
私はもう、ふたたびダンスすることが出来ない。
誤った足はリズムを刻めない。
うぬぼれてなら、、、、。
君が愚かでないのは知っている>。
*ここまではいい。次である。
<Should have known better that
to cheat a friend>
友達にウソを付いた方がよかったんだろうか。という部分。
これをわたしは意訳して「友だちにはウソつくのは簡単だ」とした。
ウソを付いたって君にはばれちまうんだ、ということである。彼女は馬鹿じゃないから。
あとは、こうである。
<しかし、与えられたチャンスを無駄にしたんだ。
そう、もう踊れない。
君とダンスをすることが!オゥ!>
この「友達」が問題で、「a friend」となっているが、
「a」と単数形となっていることで、親友かひとりの気を許した友だち(ダチ)と解釈してもいいのだが、ウソをつく、という動詞と関連させてみると、友だちに見栄を張ってウソをつく、という意味と、あるいは「たったひとりの友だち」良心の中に住む神という唯一の友だち、という解釈もできるのである。
a friendの言うつぶやきは次のようだ。
「Time can never mend
The careless whisper of a good friend
To the heart and mind
Ignorance is kind
There's no comfort in the truth
Pain is all you'll find」
<時は癒してはくれない。
ダチ=神の容赦ないつぶやき、わたしの心底への。
知らないことは「やさしさ」だ。
真実の中に慰めはない。
悲しみがあなたの見つけるすべて。>
これは悲しむときには悲しむがいい、現在の生を真っ只中で悲喜の中でビビットに生きよ、ということなのだ。地球の生物が、そうしてないと思いますか?それはさておき、
「時は癒してはくれない」なんて、こんな粋な言葉を友だちが吐くだろうか。
偶然にも、わたしの「a friend」=神 という解釈がアップされたあとに、テレサの動画を多数載せている香港シップ名の女性の方が、テレサへの献辞という形で声明を載せている。その中に、同じ言葉を使って、反対の解釈を暗示しているように、見える箇所がある。
それはこうだ。
「as a good friend, at her own convenience, we could've talked about anything.」
<親友として、彼女の手足として、われわれは何についても話すことができました>
とある。普通に受け取れば、グッド・フレンドは素直にひとりの親友ということである。
ならば、「careless whisper」の「a good friend」もそう受け取ってもいいのではないか、ということ。
でもでも、である。また元の疑問に戻る。そんな、高尚な哲学を同じような年代の友が持てるだろうか、持っているだろうか、ということ。
哲学的な、それも精神的な言葉は、キリストこそがふさわしいのではないか。
神がささやいている。心の奥底の良心や真実の声といってもいい。
上の歌詞では「a friend」が「a good friend」となって「good」が加わっている。しかも、その前にはこの歌の題名の「The careless whisper」がくっついているのだ。
しかもしかも、「the」だ。単なるつぶやきに「the」なんて付けるだろうか、ふつう。
そのつぶやき、<時は癒してはくれない>という言葉が「特別」だからだ。その真実を分かっている人が何人いるだろうか、この世の中で。
だからだ、「a friend」は神なのだ。キリスト級でなければ、とてもそういう言葉はすらっとは出てこない。英語には全く自信はないが、そういうことにしておこう(笑)。
そうして、また重要な英語歌が登場する。1989年「Heaven Help My Heart」。
彼女テレサが、どうして天安門事件のあと次のキリスト教的歌である「Heaven Help My Heart」を歌ったのか。
彼女は苦しんだに違いない。自分の行為と以後に起こった事件の犠牲との因果関係において。だから、来日した空港でのインタビューで「なんか、歌うこと、悪いと思って」という言葉が出て来る。じっさい、有田氏との会話ではテレサは事件を思い出すと歌えないと述べている。
だから、HEAVENがわたしを救ってくれる、というフレーズに信仰の思いを託した。しかし、この「HEAVEN」が問題なのである。
わたしは、「神」へのこだわりから、あえて「ヘブン」を神と訳したのだが、それがもし「天国」というそのものの意味だとしたら、との考えがアジアのある街を歩行中に突然浮上して、わたしの心を震撼させた。
わたしは、そこで「LOST HEAVEN」(失われた天国)という文句に突然出会ったのである。
その店はいわゆる古物商だった。古きよき時代が失われてしまった、という慨嘆をこめたフレーズだが、それを商売にしているところがなんとも矛盾するが、それはさておいてテレサの歌った英語歌がこうして又解釈の変更を迫られたのである。
彼女は、もうこの段階で、自殺さえ考えていたのだろうか、という疑念が突然湧いた。しかし、キリスト教徒は自殺は禁止行為のはずである。自分の身体は、神が与えてくれたもの、という教えだからだ。
HEAVENが神の意味として歌った、とわたしは考えたかった。
振り返ってみると、彼女は1884年に婚約を解消し、心に深い傷を負った。そして、1987年追い討ちを掛けるように1987年郭氏は結婚してしまう。
1985年のNHKコンサートで、心の痛手を振り払うように「Careless Whisper」をカタルシスのようにぶちまけていたのに、そうして
<知らないことは「やさしさ」なんだ。
真実の中に慰めはない。
悲しみがあなたの見つけるすべて>
悲しいときには悲しむがいいんだ、という人生哲学的な教訓を歌い、悲痛な叫びを発していたのに。その「昇華」は、郭氏の結婚で帳消しになってしまった。つまり、傷のさめやらぬ内に、ということ。
恋の痛手についで、今度は政治の痛手が追い討ちを掛ける。1989年天安門事件。
なぜ、彼女は「Heaven Help My Heart」を歌ったのか、再度問いを発しなければならない。天国が私を救う、という意味ではない、と思う。
「Heaven Help My Heart」は、じつは1980年にアメリカのミュージカルSUGAR BABIES(the staelite orchestra singers)の中でチェスが歌っているらしい(日本語)。
1980年といえば、テレサはアメリカから台湾に帰国した年に当たる。テレサは、すでに1980年初頭にはこの歌を知っていただろう。(ティナ・アリーナが「Heaven Help My Heart」を歌うのは、1990年代に入ってからだからテレサが先。)
なら、きっと1989年にこの歌を歌ったのは、ずっと心に温めていたからに他ならない。歌を歌うには、それなりに練習しなければならない。
それは、もっと前の歌詞の中に秘密がある。
問題のその歌詞は、
The day that I find
Suddenly I've run out of secrets
Suddenly I'm not always on his mind
わたしが見つけたその日。
突然、わたしは秘密から抜け出す
突然、わたしはもう彼の心には居ない
Maybe it's best to love a stranger
Well, that's what I've done
Heaven help my heart
Heaven help my heart
見知らぬ人を愛するのがベストでしょう、たぶん。
そう、それは私がしたこと。
神さまが私を助けてくれる。
神さまが私を助けてくれる
「見知らぬ人を愛するのがベストでしょう、たぶん」は
よく理解できない部分。
なぜ捨て台詞みたいに<見知らぬ人を愛するのが一番いいだろう>なんて言うのだろう。そして、天国がわたしを救ってくれる、というところまで突っ走る。これは自暴自棄的女性のヒステリーなのか。
全部を概観してみよう。
<
If it were love I would give that
もしわたしが与えられる愛があったとしたら、
love every second I had
わたしが持っていた常に二番目の愛
And I do
そしてわたしはするだろう
Did I know where he'd lead me to?
わたしは知っていたんじゃないのか、どこへ彼が導くかを。
Did I plan
わたしは計画したんだろうか?
Doing all of this
この全てをすることを。
for the love of a man?
ひとりの男の愛のために。
But I let it happen anyhow
しかしわたしはとにかくそうするだろう
And what I'm feeling now
そして今感じている何かを。
Has no easy explanation
簡単な弁解じゃない
Reason plays no part
理由は分解できない
Heaven help my heart
神さまはわたしを救ってくれる
I love him too much
わたしは彼をとても愛している
What if he saw my whole exstence
Turning around a word,
a smile , a touch?
彼がわたしの完全な「精髄」を見たというのは
言葉の周りを巡ってること。
(それは)微笑みなの?触れ合いなの?
One of these days,
and it won't be long
He'll know more about me
Then he should
All my dreams will be understood
それら日のある日に
そしてそれは長くはなかった
彼はもっとわたしを知るだろう
そして彼はそうすべきだった。
(そうすれば)わたしの夢すべてが理解されたのに。
No surprise
Nothing more to learn from
the look in my eyes
Don't you know that
time is not my friend
それは驚きなんかじゃない
わたしの目の中を見たって何もないよ
あなたは知っているの
時はわたしの友じゃないってことを
I'll fight it to the end
Hoping to keep that best of moments
When the passions come
Heaven help my heart
わたしは終りまで闘うでしょう
とてもいい時間がついにはじけ
受難が訪れるとき
神さまが私を救ってくれる
The day that I find
Suddenly I've run out of secrets
Suddenly I'm not always on his mind
Maybe it's best to love a stranger
Well, that's what I've done
Heaven help my heart
Heaven help my heart
わたしが見つけたその日に
突然わたしは秘密から抜け出す
突然わたしは彼の心には居ない
見知らぬ人を愛するのがベストでしょう、たぶん。
そう、それは私がしたこと。
神さまが私を助けてくれる。
神さまが私を助けてくれる
(後半部分のみ我輩の訳。当たっているかどうか疑問)>
*やっぱりheavenは神だね。天国では意味が通じない。
これはやけっぱちの歌だね。
男との関係の深みに入って苦しくなったんだね。
自分と彼とが違うということがつくづく分かった。
その秘密を知ってしまった。
ふたりは決して一体にはなれない。
やけっぱちに見知らぬ男を愛することが一番いいんだろう、ということにしちまえ。
そしてそうした。
(でも、苦しいよ、失望が残ったよ、落ち込んだよ)
神さまがわたしを救ってくれる
神さまが救ってくれる
(天国じゃないよ)
男との関係、異性との愛の苦しさを歌っているから、テレサには共感できる部分があったに違いない。そして、神さまがたよりだった、そういう苦しい時期を彼女も経験したということではないのか。
だから、この歌を歌える、歌おうと思ったのではないか。
追加すると、一番のポイントは「Don't you know that time is not my friend」(あなたは知っているの、時はわたしの友じゃないってことを)だ。careless whisper の「時は癒してはくれない」となんと似ていることか。
彼女テレサは、自分の恋でそう身に沁みたのだろう。時間がたっても恋の痛みは去らない、と。
10、
もういちど、1985年NHKコンサートで歌った「ジェルソミーナの道」を考えてみよう。
彼女はなぜ、このジェルソミーナを歌ったのか。それがキリストの愛、神の愛を歌っているからだ。決して裏切らない、決して離れない。もう一度、この映画のタイトルを思い出してほしい。
副題<Gelsomina de Amigas de Verdade>=「バルデーダの友ジェルソミーナ」。
わたしはキリスト教徒ではない。むしろキリスト教も仏教も否定する無神論者である。
しかし、テレサの心の軌跡に寄り添うとき、わたしはこの「万人への愛」を避けて通ることはできない。彼女がなぜ、民主化運動支援集会に駆けつけたか、それはこうした万人への愛、普遍的な愛を彼女が信条にしていたからではないのか。
1989年の中国民主化運動支援集会へ参加する伏線は、彼女の過去からすでにあったのである。
テレサの長年の唯一のマネージャーだった女性と思われる、香港シップの人物は、その献辞の中でこう言っている。
<私の彼女に対する献辞というのは、音楽というだけではなしに、人間的にも、世界的な人物の中においても、卓越した、典型的な性という壁を壊した中国女性という格別の存在であり、その偉大な人間存在のもつ「親切、友情、敬意、慈愛」は、わたしの価値の光だということです。>
ここに述べられている、誇るべき徳は、テレサが「淡淡幽情」で表現しているものだ。彼女がキリスト教的に自分を律していた、あるいは目指していた心の価値とはこのようなものではなかったか。
「タイムトンネルを通りぬけて、古代詩人の世界に入ったように、人生・国家・郷愁・親情・友情・愛情等、目の前に鮮明に浮かび上がってきました。」
「温情満人」。これが彼女とおそらく密接な関係にあった人物がyoutubeで彼女を表現した言葉である。「温かい心に満ちた人」。
だから、ずっと以前から彼女にとっては、あの行為へ飛翔する下地はすでに出来ていたのである。それが不幸を呼んだにしろ。
11、
テレサの年表の一部だけ時系列的に歌を見てみる。恋と歌とを概観する。彼女の心の揺れが見えるようだ。
1985年「careless whisper」
1985年「ジェルソミーナの歩いた道」
1986年「The Way We Were」
1988年「ニイ」
1989年「heaven help my heart」
彼女は制作係担当の鈴木女史に人生の意味を考える歌、を歌いたいと言っていた。そして三木荒木のゴールデン・コンビの新曲を拒否した。
死後遺されたテープには、以下の英語の曲目が吹き込まれていた。
5.Abraham, Martin And John
6.Smoke Gets In Your Eyes (ボサノヴァ調)
7.What A Wonderful World (レゲェ調)
8.Let It Be Me (レゲェ調)
9.Heaven Help My Heart
この中で、すでに取り上げたのは、9番だけ。8番は男のわがままが露骨なのでわたしは評価はしない。彼女は単に恋の歌と受け取ったのだろうけど。
7番はCMにもなった人生讃歌だし、ヴェトナム戦争反対の反戦歌として作られたという歌。「煙が目に沁みる」は勿論失恋の歌。
彼女が自ら選んだだけあって、彼女の思いどおりに、人生を考えさせられる人生の酸いも甘いも表現する歌だ。彼女は、困難な障害にあって歳相応のよい経験を積んだ。だから、煙が目に沁みるのである。
12、
パリで、彼女はその貴重な経験を幸福につなげれなかった。だれが悪いということではない。それが彼女の宿命だった。
私事になるが、わたしは幼い頃「テレジア幼稚園」に通っていた。このテレサの探究の旅を始めて随分たってから、自分の過去を回想しているうちに、テレジアという名前が「テレサ」と同じ名前なのだということに、突然気づいた。なんという間抜けだろう。今ごろになって、、。
テレサという名前は、聖テレサ(1515–1582)から来ているらしく、テレジアも読み方の違いだけのようだ。これに気づいた時、わたしはテレサとの縁をつくづく感じた。
というのは、彼女の選ぶ衣装の色使いは、わたしの好みとぴったり一致していたからだ。
まあ、中国的なピンクや派手な黄色は別としても、ブリティッシュ・グリーンやあずき色のような落ち着いた暗赤色や、濃厚な群青色や、しっとりとした黄土色などは、まるで私の好きなモジリアニの色使いのように思えてならなかった。
こう言っちゃ天才歌手に失礼だが、またわたし如きが及びもつかないのだが、まるで「よく出来た妹」みたいな女性だった。血液型が同じということも関係あるかもしれない。脱線した。
わたしは数十年前、長い通勤の帰途の途中にいた。冬の近づいた季節、太陽の沈むのは早く、街道はすでに真っ暗になっていた。自宅に近づいた道が陸橋に差し掛かると、わたしの前を走るクルマの長い長い列が、まるで蛇行して生き物のようにうねって続いているのが見えた。
クルマの無数の尾灯は、綺羅星のごとく輝いていた。わたしは、生命の天の河だ、と思った。ああ、このクルマの主たちにも帰る家があり、その帰るうちには家族やそれぞれの人がいて、それらはみな生命で、それぞれの人生を持っているのだと思うと胸が熱くなった。
町のそこここに灯る家々の明かり。その中に、それぞれ大切な人生がある。同じ感慨をこうして尾灯の天の河に見たわたしは、自分以外の存在を象徴的に教えられたような気がする。
誰にとっても、人生は真面目で真摯なものである。
テレサ・テンを探究することによって、わたしは懸命に、真摯に人生に向き合い、生きたある女性の物語に触れた。それは、彼女だからというではなしに、他の、より任意に惚れた歌手の生涯でも見られる、感じられることなのかもしれない。
ただ、もうわたしの生きている時間のうちに、もうひとりの惚れた人は現われないだろう。そういう意味では、テレサ麗君は貴重な経験を与えてくれた。彼女にありがとう、と言いたい。
最後に、彼女の日本語歌の最高峰と思われるのに、天安門事件があって彼女の傷ついた心情からすぐさまお蔵入りとなった「香港・・hong kong・・」の歌詞を上げて置きたい。
(*_から_(涙)の下線の部分はテレサが1989年10月収録11月24日放送のTBS「テレサ・テン愛の15周年」番組で実際に涙を流しながら歌いあげた部分です。作曲三木たかし、作詞荒木とよひさ)
「_星屑を地上に蒔いた(涙)_ この街のどこかに
思い出も悲しみさえも いまは眠っている
_この広い地球の上で(涙)_ くらしている人達
誰もみんな_帰るところを(涙)__持っている(涙)_はず
ああぁ、人はまぼろしの夢を追いかけて
生きている_だけならば(涙) はかな(涙)_すぎる
_なぜに私は(涙) 生まれて来たの(涙)_
_なぜに心が淋しがるの(涙)_
銀色の翼をひろげ まだ知らぬ国(異国)へと
いつの日か旅立つならば そばに愛する人
時が過ぎ時代が変わり 若き日をふり向き
_心だけが帰るところはきっとこの街(涙)_」
以下省略。(「なぜに・・」の2行を含んで、その前の2行の変化した詞の繰り返しが2回)
いろいろな死因説が流れているが、わたしには決定的な判断をする能力も材料もないのでこれには触れない。
<鄧>の字が表示されないように、細工されている。何者によるものか、fc犯人か。
「20120727テレサ際立つメッセージ性と基督教シンボル」
<テレサ・テン鄧麗君への遠い遠い旅>
この文章は、今まで発表してきた誤りと思い込みの激しい「書き飛ばし」の多いブログ文章を概括した文章である。テレサ・テン鄧麗君に関してはこれで終わりとしたい。
この文章の中で言及した、メッセージ性に関するイヤリング・ブローチはたまたレコード・ジャケット写真などの画像はすべて存在する。あえて今回は、情報通信網の不安定さやわたしを付け狙っている集団の妨害などを考慮して、挿入しないこととした。ただ、機会があれば完全を目指してアップする。そうすれば、文章はより迫力を増すだろう。なんちゃって。
1、
わたしはテレサ・テン麗君の歌を身を入れて聴いたことはなかった。
彼女の活躍した1984年から1987年あたりまで、私は歌を聴くとか酒場に出入りするとかという生活を送っていなかった。そして、テレサ・テンも演歌歌手だろうと思っていた。
また、迂闊なことに天安門事件の前に中国の民主化運動支援集会で飛び入り参加し、痛烈な中国批判の歌を歌ったということも全く知らなかった。世事知らず、と言えばそれまでだが、しかしそうだったのである。
ところが、彼女が死んで間もなく私の兄が死んだ。故郷に帰ったわたしは、初めてテレサの歌も画像も見ることになった。
そうして、ある日、インターネットで彼女のファンが台湾まで行ってホームページで報告した、「黄色のロードスター」の画像を目にしたのである。ロードスターはスポーツカーとしては、安価で大衆化された人気車だったが、この黄色のロードスターは極め付けにかっこよかった。へえ、こんなのに乗ってたのかぁ、と思った。
それが鮮烈に記憶に残った。
偶然はつづくもので、エリツィン元大統領などのロシア語通訳者として活躍し、またエッセイでも歯に衣を着せぬ発言で人気を博していた米原万理さんが、あるエッセイで、たしかタクシーの中で、<テレサ・テンが中国語で「わたしの家は山の向う」を歌ったのを聴いたとき、身震いがした>と書いているのを発見した。
その歌を歌うことに依って発するメッセージは、痛烈な中国批判だったのである。
わたしは、あの黄色のロードスターを思い出した。そして、インターネットで本気でテレサ・テンの歌を、画像を見まくった。熱烈なテレサ・ファンのブログやホームページも見た。
彼女は決して演歌歌手ではなかった。インターネットで越境的に中国語の歌も英語の歌も聴くと、演歌歌手などというレッテルは吹き飛んでしまった。彼女は、小さい頃からの天才歌手だったし、英語もものするグローバルなポップスの先進歌手だったのである。
そして、わたしは、ある重大な事実を発見したのである。
それは、彼女が歌う歌全部が中国当局によって禁止措置の憂き目に遭ったとき、彼女がしたことは、レコード・ジャケットでそれに対する猛烈な抗議の意思を暗黙のうちに示したことである。
黄色の衣装に、磔のポーズ。これぞ中国当局が黄色(エロ)指定とした禁止措置への、逆手に取った揶揄の当てこすりだった。「磔にされたわたし」。わたしにとって、この「黄色のインパクト」は強烈だった。
その反骨精神の旺盛なこと、しかも機知に富んでいる。
わたしは、黄色のロードスターの意味を突然理解した。頭の中で、花火が爆発したようだった。ロードスターの発売はなんと1989年。あの天安門事件の、その年なのである。
彼女は、意図して買ったに違いない、と思った。この事件を忘れないために。しかも彼女にとっては由緒ある「黄色」の色で。(*じつは彼女の誕生色でもある)
あとで探索してみると、インターネット上のマツダのクルマの目録ではロードスターに黄色の色はなかった。ただ近い色では金色めいた土色があるだけだった。
わたしは、私の見た画像は幻影だったのか、思い違いなのか、と思って、そのブログを再度懸命に探したがもう突き止めることは出来なかった。
わたしは、自分の誤りだと思い直した。しかし、のちのちわたしは実物に遭遇したのである。
わたしが自分の命を守るために東南アジアに飛び出したとき、わたしはラオスに入った。そこで待っていたのが、この黄色のロードスターだった!やはり実物はあった!!
私を尾行し私の行動を熟知している(文章も含めて)何者かが、これ見よがしに実物を見せに来たのは明らかだった。彼らは私を見張っていた。ナンバーは「云南(雲南)」。ラオスの最北の国境に接する、山がちな中国の地域(省)である。
その目的はなんであれ、わたしにとっては自分の記憶の正しさを立証したものだった。
わたしは、こうして彼女の「意思性」とあの空に溶けるような美声に惹かれて、数々の疑問の不思議な迷路のような探究の旅に出た。
2、
そうして次に発見したことは、彼女が日本で唯一大掛かりに開いたコンサート、NHKコンサートで展開した衣装がキリスト教的な意味を持っていることだった。
ミミズの這い回ったような、真紅の地に白のくねくね巡る糸線の模様の上衣と、真紅一色のロング・スカート。これは情熱の赤だ。そして糸の紋様は迷いや煩悶の遍歴を表わしている。
しかし、彼女は幕間にこれに黒一色の腰マントを付けて覆い、歌うのである。これは一体なんだ?
真っ先に浮かぶのは、スタンダールの「赤と黒」。中国では文革中、禁止図書の一覧に入れられ、焚書の処分の対象になった本である。しかし、スタンダール本人は極めて真面目に「恋愛」を書いていた。世間の規制的な道徳を嫌っていた。
この本の一般的な見方は「出世意欲にからんだ恋」である。しかし、読んだ限りでは、そうした穿った見方は偏見的ではないかと思われる。スタンダールは、キリスト教的な煩悶にそそのかされて密告し、主人公を死に追いやる「体制(世間)」と悲劇を、描いたのではないかと思われる。
本人たちにとっては、恋は真面目で一直線なものだ。スタンダールの「赤と黒」の題名は比喩で、赤は情熱や色恋、黒は悲しみや喪を表わしている。この小説の主題を一言で言うなら、「許されぬ恋」。
まさにテレサの私生活そのものではないか!前年の1984年に郭氏との婚約は正式に解消になった。彼の祖母には芸能界からの引退やそれまでの交友関係との断絶など厳しい3項目の要求を突きつけられていた。
だから、この赤と黒の衣装は、自分の恋の境遇を自嘲的に表現し、かつ彼の祖母を含む世間になお残る歌手への差別的な見方に対する批判と暗喩をしてみせたものだ。
まさに「許されぬ恋」だ。郭氏の家族にはそのままではテレサは「許されなかった」のだから。わたしは、これを黄色のインパクトに次ぐ、赤と黒のインパクト、とさえ名づけたい、と思った。
その自嘲的な自己の恋の遍歴は、ミミズ這いのような白い糸線のくねくねの軌跡にあたかも表現されており、ひるがえって黒のマントで覆うことは、スタンダールの「赤と黒」の「黒」の意味、悲しみと喪を意味した。だから、赤のドレスに黒の腰マントは、<自分の破恋の象徴的衣装>でもあったのである。
この逆襲、この揶揄的総括!彼女は賢い。
しかも、偶然なことに、その赤を黒マントが覆うという表現は、日本の仙台の博物館に所蔵されているという名画「シメオンの剣・悲しみのマリア」と、同じ色と形であり、テレサの「黒の腰巻マント」はまさに「悲しみのマリアの黒マント」だった。
彼女は、これを知っていたのだろうか。くしくも、彼女の日本での最後の歌唱は、1994年仙台のNHKチャリティーコンサートだった。(このあと彼女はチェンマイに帰り、そこで死んだ)
この「赤と黒」にはもっと深い意味が隠されていて、それはマグダラのマリアに関することである。どうしたことか、「改悛するマグダラのマリア」の絵画では、たいていマリアは赤のスカートに白のブラウスの衣服を着ている。
異端審問は、聖母マリアの絵画を見て困惑した。着せられていた赤のマントはマグダラのマリアを意味していたからだ。マグダラのマリアは売春婦だったから、キリストによって改悛したとされている。だから、聖母マリアの「聖性」を強調するため、つまり結婚や「性」性を否定するためにマグダラのマリアを思わせる赤色を禁止した。
そして、美術検閲官は1649年、処女マリア像をすべて「青と白」で統一するように勅令を出した、という。ほんとは、マグダラのマリアはキリストの妻だという説さえあるというのに。
売春婦の色は、こうして「赤」とされてしまった。ひるがえって、テレサの衣装の色の表現はどうだろう。歴史的に発祥とその成立の過程はどうであれ、歌手に対する侮辱的見方は実際存在していた。だから、彼女の衣装は、それへのこれ以上ない切り返しだ。
黒の腰マントは聖母マリアの悲しみのマントにも擬せられ、彼女の深い悲しみを表わしていた。
3、
コンサートの衣装は、ここから葡萄を思わせる薄紫のチャイナ服、そしてメタリックな空色のミニ、透けても見えるまた真紅の下広がりのドレス、そしてアンコールでは純白のウェディング・ドレスへと展開する。
この色の展開は、じつは聖書をなぞっていたのである。
(詳しい説明は別の論考でしたので省くが、おおまかには次のとおり)。
「旧約聖書・イザヤ書第1章18.
<主は言われる、さあ、われわれは互いに論じよう。
たといあなたがたの罪は「緋(ひ)」のようであっても、雪のように「白」くなるのだ。
「紅」のように赤くても、「羊の毛のように」(白く)なるのだ。>
糸線の這った真紅は「緋色」であり、透けた真紅は「紅」だったのである、聖書の表現の。最後のウェディングの白はもちろん、雪のような、羊の毛のような白、なのである。
ドレスの形でさえ、彼女は聖書をなぞっている。透けた真紅のドレスの形は、トランペット・フラウアの花のよう。トランペットが逆さに吊り下げられたように咲くのが、この熱帯の花。
トランペットは、ファンファーレを意味し、次のウェディングを予報しているのである。うなるではないか。彼女は一流のアーチストである!
中間の紫は、キリスト教的には葡萄を表わし、キリストの血の比喩でもあり、彼女の香港の自宅は守護の色・紫で塗られて「紫の館」と言われた。メタリックな空色のミニでは、米国歌ナンバーの「the power of love」や「I just called to say I love you」が歌われる。それは、力強い生命讃歌、人生讃歌となっている。蛇足だが、青はオルゴン・エネルギーの色なのである。
色だけでなく、衣装の形でさえトランペットの形で分かるように意味をなしている。そして、最後の衣装の、純白のウェディング・ドレスで彼女は「ジェルソミーナの歩いた道」を真っ先に歌うのである。歌の配列でさえ意味がある。
騙されて結婚させられたジェルソミーナは、裏切られても裏切られても夫に尽くそうとする。これは感動を読んだイタリア映画を下地にした歌(日本版・作詞・門谷憲二、作 曲・丹羽応樹)。
具体的には、1954年のイタリア映画「道」で、ジェルソミーナは「精神薄弱」と設定された女主人公である。懸命に「夫」に尽くそうとするその無垢な精神が、最後まで貫かれる。
この映画のテーマは、夫に尽くすということにあるのではない。旧道徳的な「献身」でもない。それは本物の主題歌に表現されている。主題歌は「 "La Strada" by Nino Rota」、『ニーノ・ロータの「道」』。ニーノ・ロータは映画「ゴッド・ファーザー」のテーマ曲を書いた人。
副題は<Gelsomina de Amigas de Verdade>=「バルデーダの友ジェルソミーナ」なのだ。
あくまでも「友」として懸命に尽くしたジェルソミーナ。この「友」という言葉は非常に大事な言葉、意味深な言葉だ。
簡単に表現されるが、キリスト教的にはよく歌でも「a friend」とあり、親友とも取れるし、キリストとも取れるのである(あとで英語歌「careless whisper」の項目でも論旨を展開する)。
だから、この「友」の本当の意味するところは、決して裏切らない、決して離れない、「愛(慈愛)の友」という意味なのである。まさに神だ、キリストだ。
だから感動を呼んだのだ。監督が企図したのはそこだろう。ここに、テレサの思いをみる思いがする。
テレサは、じつは敬虔なキリスト教徒だった。それは、コンサートで付けられた、彼女のブローチからイヤリングまで、すべてハートの形や十字架など、すべてキリスト教のそれだったことから分かる。
(その証明は、彼女を少女時代まで衣装からブローチ、レコードジャケットまで通覧して、いよいよ決定的になった)。
コンサートの全体像は、明らかに聖書のキリストの言葉をなぞっていたのである。
しかし、コンサートの芸術的側面はそうであれ、彼女にとっては、こうして架空の結婚披露を演出して見せたことで、私生活的に、前年婚約正式解消で受けた痛手を乗り越えて、心の踏ん切りをつける意味もあったのだろう、と思われる。
それは、非常に悲しい、人生のエポックと呼んでもよいぐらいの残酷な心の踏ん切りだったかもしれない。もしかしたら、彼女は「結婚」ということすらひそかに断念していたかも知れない。
同じ1985年夏の日本民放のインタビューで、彼女は「結婚、難しいですね」と述べている。歌手だから、と。
わたしは、このNHKコンサートによって、彼女の信仰の深さを見たような気がした。そして、このあと彼女の動画の中から、、次から次とその証拠となるようなキリスト教的なイヤリング・ブローチなどを発見していく。
4、
1989年中国民主化支援集会での「わたしの家は山の向う」、1984年「つぐない」ジャケットの「黄色の磔」、1985年の「聖書をなぞった衣装構成」NHKコンサート。
この三つのメッセージ性を、時代の前後に関係なく発見したことは、わたしにとって意図しない驚きだったし、また次の「表意」の存在をうかがわせた。
やはり、あった。それは。1983年はじめに発表の中国古典詞詩特集「淡淡幽情」である。
上記のメッセージ性事象の前ふたつが政治的だとすれば、この歌集ももろにその範疇に属し、まさに「政治プロパガンダ」とさえ言えるものだった。
この歌集は、古典詩歌に曲をつけたことによって、新しい試みとして日本の音楽評論家などにも称讃され、台湾などで賞を得るなど高く評価されているが、わたしはそんなのは浅い見方だと思う。この中に、収録されている歌が果たして歌い継がれていますか、と問いたい。そうではないはずである。
問題は、そのレコードやCDに挟まれていたブックレットやリーフである。
普通は、レコードに収録の歌の歌詞などそっけなく記載されているのがおちだが、これは違った。古典の宗詞唐詩の解説がやけに詳しいし、暗殺されたという皇帝の事実までばっちり示されている。
過去を懐かしむ、という詩人が殺されてしまうのだから、これとて中国批判を意味していないはずはない。過去とは、共産党が政権をとる以前の体制のことなのだから。
彼女の歌手としての経歴をつぶさに見るならば、彼女の家族の台湾へ渡った経緯や家族構成によっても、彼女が台湾当局の政治路線に沿った動きをしているのが分かるだろう。
だったら、この「淡淡幽情」は、その色彩は政治プロパガンダなのだ。音楽的にのみ「新しい試み」として見ることは、その別の側面を見落とし真相を隠すことになる。
真実は明らかでないが、彼女は16歳の時に外遊歌手活動の許可を得るために、台湾の情報部署である「三処」への協力を約束させられた、と言われている。これが、テレサ・スパイ説の根拠となった。
もしそれが本当だとしたら、出来る範囲内での協力はするという役回りで、スパイまではいかなかったろうと考えられる。このスパイ説の流布については、かつて彼女のマネージャーもしていた母親が猛烈に反論している。
「わたしが四六時中そばにいるのに、どうして連絡を取り合ったというんですか。そんな事実はまったくありません」。
しかし、この情報機関協力員説を消し去ったところで、1979年偽造パスポート事件によって日本から米国へ国外追放されたテレサが、1980年に台湾当局への協力(軍慰問コンサートの開催など)の約束と引換えに、台湾に帰国し、さっそく1981年に中国本土と対峙していた金門島の最前線基地を訪問し、大陸に向けて「放送」したこと、軍慰問のコンサートを開いたこと、は確かなのだ。
彼女の歌手活動がそもそも政治的色彩を帯びていることは消しようがない。追って記述していこう。
テレサら中国本土から渡ってきた中国人を台湾では「外省人」と呼び差別した。テレサ自身も、小さいころ教師による厳しい扱いを受けたという差別の経験を話してもいる。
帰国してから軍に協力して歌うテレサを、口の悪い台湾人は、「歌う公務員」とさえ言った。今でもテレサを嫌いと公言してはばからない人もいるのは事実だ。
彼女自身、父親は国民党軍人だったし、兄のひとりは現役の軍人、またもう一人の兄は国民党機関紙記者、またもう一人は軍の出資するテレビ局員という家族を持っていた。政治思想的にも似てくるのは当然といえよう。
台湾は当時、いつか機を見て「大陸反攻」という路線だった。戒厳令もずっと敷かれていたし、取締りや弾圧も厳しかった。この様子は、テレサを侮辱しているととれる「何日君再来」平路著の本の中でも記述されている。その中での歌手活動である。
1982年、1983年と彼女は香港でコンサートを開いているけれど、コンサートの最後を締める歌は中華民国のナショナリズムチックな「梅花」と「中華民国頌」だった。
1970年代後半から中国本土でも人気の鰻登りだったテレサ麗君は、1983年に本土から押しかけた中国軍幹部らを目にし、いきなり「中華民国頌」を歌って、彼らを怒らせ立ち去らせてしまった。
彼女にとっては中国を共産化している当該の支配階級の共産党幹部ばかりだったし、本当に自分の歌を聴いてもらいたい中国の大衆ではなかったからだ。
彼女が軍慰問での清唱で「何日君再来」を歌ったとき、いつ君はまた帰ってくるの、と歌う場面で、彼女は「来らい」と「来」を2度重ねた。そして感極まり言葉に詰まって声を呑んだ。その「来らい」とは、中国が自分たちの手にいつ戻ってくるのか、という意味でもあったのだ。
金門島放送、台湾軍慰問コンサート、愛国チャリティーコンサート、と来て、1983年、着々と準備していた中国古典詩への歌曲化「淡淡幽情」の出番となる。
昔を懐かしんだ皇帝の暗殺を背景にもつ歌(獨上西樓)の収録は、その解説の記述の細かさにも証明されているように、暗喩に満ちていてもろに「政治プロパガンダ」のビラの如しだった。これは台湾側による、情報プロパガンダである、とわたしは思う。
その歌集の成立の経緯は、つまりテレサのファンがそうした古典詩に曲をつけて楽しんでいたという話を耳にしたテレサが、ひらめいてプロのプロデューサーに詞詩の作曲化を依頼した、ということになっている。
わたしは、時系列的に見てもこれはこれは台湾側の情報戦の一環だと思う。金門島放送が1981年で、その後彼女の音楽テープが風船に括り付けられて大陸本土に流されたという事実、そこから間隙なく1983年初頭のこの歌、である。その政治的色彩は隠しようがないではないか。
本土でのテレサの人気は1980年ごろに爆発的に上昇したという。彼女の情報員としての(もしそうなら)力は、当局も黙過できないほど強力なものだった。だから、ある著述でもテレサは「超ど級の情報兵器」だった、と書かれるわけである。
慌てたのは中国当局である。年も押し迫った1983年10月、小平が講話によって精神汚染としてこの批判の口火を切り、それに追随して軍機関紙が精神汚染「酒場音楽」批判の論陣を張って、テレサの歌全部を禁止してしまった。
テレサの歌は1979年あたりからたびたび規制禁止されたというが(1981年にはテレサの歌は「扇情的」で「反動的」だ、との理由で通達が出され、中国公安部、教育部、中国共産主義青年団など五つの中枢機関によって歌のテープが取り締まられた)、上記の禁止がこの「黄色指定」なのである。
1983年に「淡淡幽情」を出した途端に「精神汚染批判」が中国側から出されたことは偶然であろうか。そうではあるまい。
この厳しい「言いがかり」と差別的論調は、テレサをひどく怒らせた。彼女はそれに対して反骨、反論を示すことにした。それが、日本再デビューの曲に決まった「つぐない」レコードの<黄色衣装・磔>のジャケットである。自分が磔にされているのだ、という揶揄である。
一連の出来事は個別ではなく、繋がっているのである。
テレサの「メッセージ性の事象」を、わたしの気づいた順ごとに記述しているが、その事象を時系列的に整理しな直し、さらにテレサの年表と照らし合わせると、一層その政治的色彩が濃いことが分かると思う。もうひとつ興味深い事実をあげよう。
1982年、彼女はコンサートで中国語で「昴(すばる)=中国歌名『星』」を歌う。ここで、彼女は左手で天を指差す。
中国歌では、元歌にはない「平和」という文字が歌詞となって歌われている。テレサがあえてこの歌を取り上げ、歌った意味は何か。
中国の政治情勢をよく注意してみるならば、それは多くの悲劇を伴なった、あの文化大革命が、1976年から小平によって口火を切られ終息し、平穏を取り戻した時期に当たる。人びとはようやく心の平安を持つに至った。
それがテレサ麗君の爆発的ヒットを生む背景となっているのだが・・。
わたしは、この「昴=星」をテレサがあえて歌った意味は、あの文化大革命の膨大な犠牲者への鎮魂、ではないかとひそかに思っている。
彼女は、初めは声小さく始め、最後には、左手の人差し指を遠慮がちに天上(星=犠牲者)を示して見せて、高らかに歌った、「われは行く」と。
5、
テレサに関しては、かつてロサンジェルスで恋仲だったと言われるジャッキー・チェンの証言にもあるとおり、物静かな人という先入観がある。香港だか台湾だかのtvで政治討論会番組に出席したテレサは、その動画を見る限りひと言も発しなかった。
静かな人というのは事実だろうが、しかし、だからといって、彼女が政治に無関心だったかというと、そうではあるまい。
兄らと苛烈な言い合いをしていたという身内の話もあるし、のちに中国がテレサへの対処方針を転換しテレサとの接触を図って新聞記者が香港の自宅に誕生日に電話を掛けインタビューした際には、社会マナーの向上に中国が取り組んでいるのは素晴らしいことですね、と言っている。
加えて<本土のことはいつも熱い思いで注視しているのですよ>と語っていることからも、海外に住む中国人として共通の強い関心を中国の情勢に注いでいたことが分かる。
1987年に知り合い、1988年からテレサの暗黙の要請で彼女のレコードの制作担当となった鈴木章代女史の著書では、テレサが中国の民主化運動や香港の返還に関して熱い思いでいたことが生々しい事実とともに語られている。
だから、である。彼女の数々の動画は、政治的な側面でも彼女の積極性や能動性を十分語っている。
「何日君再来」で「来らい」と2度重ねた場面、1983年香港のコンサートで中国本土から来た軍服姿の一団を怒らせた場面、黄色衣装の反骨精神、などなどその証拠は挙げればきりがない。
1989年の天安門事件のあと、自分の集会への飛び入り参加が事件へ何がしかの悪影響を与えたのではないか、という自責心から、来日を中止していたテレサは、10月なってようやく来日し、自分の「メッセージを伝えるために来ました」と明白に空港で語っている。
そして、そのTBS「愛のデビュー15周年」(日本での)で、彼女の側からメッセージ伝えたいとの積極的な提案があったのである。
彼女は、香港あるいは海外、中国本土の中国人同胞に伝わることも考慮して、重要なメッセージを発した。
それは天安門事件を引き起こした中国当局への抗議でもあったし、自分の考え(思想)の表明でもあった。
「私はチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活していても、私はチャイニーズです。だから、今年の中国のできごと全てに、私は心を痛めています。中国の未来がどこにあるのか、とても心配しています。
私は自由でいたい。そして、全てのひとたちも自由であるべきだと思っています。それが"おびやか"されているのが、とても悲しいです。でも、この悲しくてつらい気持ち、いつか晴れる。誰も(が)きっとわかりあえる。その日がくることを信じて、私は歌っていきます」。
これはメッセージ性ではなく、メッセージそのもの。暗喩も比喩も揶揄もなしに、直截的な彼女の心情の訴えである。これ以上ないメッセージ、政治性の枠をも突破している熱い思いだ。
わたしは、彼女の政治的立場は煮詰められておらず、資本主義のステレオ・タイプの社会主義批判の型を脱してはいない、という立場だが、<わたしは自由でいたい。そしてすべての人たちも自由であるべきだ>との考えには、もろてを挙げて賛成する。
彼女のメッセージは、万人にとって、重要な討論のたたき台であるし、自由の考察へのヒントになるべき性質を持っているのである。
わたしは、自分の小論でその「自由」に関して資本主義も社会主義も統制的資本主義である点では、どこに政治の重点を置くかによって度合いの違いがあるにしても、経済システムとしては似たようなものだ、という考えを持っている。
(中国の小平に始まる改革開放路線、それに追随するヴェトナム、ラオスなどの「社会主義から統制的資本主義」への転換と導入)
わたしは別の論考で、彼女の「自由のメッセージ」と、彼女が大陸に向けて1991年に放送した「チャンスの自由」に関して、カラシニコフ小銃の発明者のカラシニコフの著書から彼の言葉を対照的に引用した。
彼はレーニンを誉め、あの当時の熱い革命の思いを語った。そして、<肝心の「チャンスの自由」こそは社会主義である。すべての人がスタート地点が平等であるべきだ>と語った。
だれの言葉かと見がもうぐらい、テレサの「自由」の発言と共通している。カラシニコフは社会主義の良い点は確かにあった、と語っている。詳しい展開は別の稿に譲るが、いかにソビエト(ロシア)に関して歪んだ情報が西側世界に満ちているか、その小著の解説でも触れられている。
たしかに、ウィルヘルム・ライヒなどの著作やチェコスロバキアから追放された先進的映画監督などの話をみると、結婚や性の変革に関して、ソビエトではのちのヒッピー文化や新左翼のムーブメントよりはるかに先進的な試みが行なわれていた、のである。
6、
テレサのメッセージは、その1989年TBS「愛の15周年」のパフォーマンスそのものにもあった。
彼女は、歌の前半と後半で真紅から黒へ(まさにスタンダールの「赤と黒」あるいは「シメオンの剣・悲しみのマリア」と同じ「赤と黒」)ドレスを転換した。
赤は愛であり、流した血の色。ドラクロアが描いた「民衆を導いた「自由」」のフランス国旗の赤。中国でもヴェトナムでもラオスでも解放や社会主義のために流した血を表わす、あの真紅の赤。
彼女は、衣装で中国の民主化運動のために犠牲になった若者の血を表現しているのである。そして、続いた「黒」は悲しみ、追悼、喪である。
そればかりではない。
彼女は、腰に大きな蝶の宝石ベルトを付けていた。その蝶は、台湾の象徴でもあると同時に、死者の魂が蝶となって舞う、霊魂の依り代をも表わしている。
彼女は悲しい自由化運動とも受け取れる歌「悲しい自由」を歌うとき、左手を高々と天上に上げた。そして、がっくりと手を振り下ろした。繰り返される「ひとりにさせて」というフレーズだった。それが、彼女の悲しみをよけい痛切に表現していた。
天上に挙げたそれは、天上に昇った天安門事件の犠牲者を意味したし、振り下ろした腕は彼女の悲しみを表現しているのである。彼女は泣いていた。そのパフォーマンスは、単に演技ではなく、直截的な彼女の心情と一体となった、究極のものだった。
(彼女は、この来日でのtv収録で1982年に歌った「昴=星」をまた歌った。今度の「星」は天安門事件の犠牲者を意味した)
別のtv局の番組でも、彼女は黒い蝶のイヤリングを付け、黒い喪服で歌った。
南こうせつと「神田川」を歌ったとき、「若いときは何もこわくなかった」というフレーズに差し掛かると、彼女は目をパチパチいわせて歌った。彼女には、そのフレーズがまさに自分の過去を表現し、そのとき瞬時に過去の思い出が走馬灯のように蘇り、心に去来したのだろう。
実際、彼女は1981年から1983年へと大陸へメッセージを届け、黄色の反骨を示し、1989年中国の民主化運動のために集会(政治)に飛び込んでいったのだから。そのとき若い彼女に何もこわいものはなかった。
7、
テレサ・テンにとって勿論歌こそが天命といえるものだったけれど、ほかには恋と思想の出来事は両輪のようなものだった。ふたつを携えていた。彼女の恋と結婚は悲劇に終わった。しかし、それは彼女の人生を考える上で欠かせないものである。
わたしは、彼女の歌唱のパフォーマンスの中に、恋の、自分の恋のメッセージをも見てしまった。
彼女は「泣き虫」だったという。その言葉からわたしは、動画をくまなく探し、テレサ涙の小史と題してとりあえずまとめてアップした。
そこには、彼女の人生の反映があった。
エンドレス・ラブを初め数々の恋の歌を歌うに際し、彼女がたびたび泣いていたし、「何日君再来」でも彼女は1番と2番の歌詞の間にあるはずの、科白(せりふ)を言えずに無言で通したこともある。感情がのど元までこみ上げて来ていたのである。
「何日君再来」を歌う直前、彼女は台詞を言った。「家族で星を見ました。この歌を歌うたびにそれを思い出します」。歌い終えた彼女の両目のはじには涙がいっぱい溜まっていた。
歌は彼女の私生活を反映していたし、彼女が込めた情感は実地の経験に裏づけされていた。
1984年婚約を解消し、1986年にはシンガポールから活動の拠点を香港に移し、「紫の館」といわれる自宅も購入した。日本で84年から再デビューした彼女は、軒並み3年連続、東西の有線の大賞をとってしまうグランドスラムを達成した。この記録はいまだ誰にも破られていない。
また、1987年東の有線の大賞を「別れの予感」でとり、4年連続受賞とした。
(この曲は例年と違って遅く6月に発売になって、いつもよりハンディを負っていたから、一方の大賞を逃がしたのは仕方なかった。遅れがなかったら、4年連続東西有線の大賞をとっていた可能性もある。しかし、海外のリクエストではナンバー・ワンだという書き込みがある。題名が「襟曲」(意味=心の内の歌)と決まっていたが、中国語化はされず中国歌としては発売されなかった)。
1984年、再デビューの最初の年、日本で出演して間もないころ、彼女はtv局の収録で白の肩掛けの帆布のようなざっくりした布を、ショールのように上半身を覆って、しかも船員帽をかぶって登場した。ショールと呼ぶには厚手の布地である。
そして、珍しいことに黒の皮手袋さえはいていた。これは何か。なぜなのか。黒は悲しみの暗示ではなかったか。手袋をはくのは、テレサとしては初めての部類に属するパフォーマンスだった。この時は。
彼女の歌い方は弱々しく、あのNHKコンサートやそれ以前に見せていた歌のクライマックスでの「ガッツポーズ(こぶしを握る)」はあるかないかの小さなものだった。彼女の当時を語る関係者は84年は彼女は元気がなかった、と述べている。
さもありなん。彼女は婚約の正式解消という悲嘆に直面していたのである。香港や台湾あるいはタイ、マレーシア、シンガポールで1983年末から1984年の1月にかけて彼女は、自身のデビュー15周年(日本の15周年記念とはちがう、幼いころのデビューから数えて)コンサートを巡回で開いていた。
それが終わって、ひと息ついたころに、彼女は私生活上の難題・婚約解消に着手していった。そのとき、彼女には、1983年からの中国本土での「黄色指定」という彼女の歌全部を視聴禁止した措置が、追い討ちを掛けていた。
わたしは、その帆布と船員帽に「パリ」を見た。パリの市章は帆船なのである。パリは、セーヌ河の中洲シテ島で始まった貿易を端緒とする。帆布のざっくりした上半身覆いはまるで帆船の帆のようだったし、その船員帽は帆船象徴の布地とあいまって「船出=旅=別れ」を意味した。
彼女は、パリ行きを暗示していた。じっさい、彼女は1983年にパリに立ち寄ったとみられる(推測)。なぜなら、上記の巡回コンサートですでに十字架や薔薇やハートのイヤリングを付けていたからだ。また、次の年1984年の来日には「パリ」という香水をつけて登場している。
パリは、婚約時かそれ以前、郭氏と一緒に訪れていた思い出の都市なのである。それは、パリのレストランの女主人が証言している。
この時のテレサの心境は、この帆布・船員帽の歌唱とともに、日本語化された「ニイ(あなた)」という歌に結実されている。そこにはパリに逃げた悲しみが歌われていた。(パリ訪問は1986年や1987年にも行なわれた可能性がある。レコードジャケットの撮影写真がそれを物語っている)
1984年再デビューとして来日したテレサは、徹子の司会の歌謡番組で、彼女は彼女ののちのトレード・マークにもなった香水「パリ」を付けて登場した。(聖母マリアを象徴する薔薇が主成分)。
おそらく、東南アジアと中国本土で成功を収めていた彼女は、日本での再デビューでこれほどまでに人気を博し賞を総なめにするとは自身も思ってなかったのではないか。
だから、「つぐない」を歌うときにも、いつも歌うときに頻繁に見られたあのガッツポーズ(クライマックスで握りこぶし)に弱々しさがあった。
しかし、彼女の歌「つぐない」によって、不動産の貸し部屋物件で西陽の当たる部屋が女子学生の間でブームになるほどだった。その人気沸騰はものすごかった。徐々に彼女のガッツポーズは復活した。
次に、恋への関連を窺わせるものは、1985年NHKコンサートの中の英語歌と1986年の映画にちなむ英語歌、1988年の「ニイ(あなた)」日本語版である。
彼女は、再デビュー来日3年目の1986年「時の流れのままに」を歌うステージで、英語歌の「THE WAY WE WERE」(映画「追憶」の主題歌)を歌った。
その中のフレーズ。
「ねえ、わたしたち、もう一回やり直せる?」。
ふたりの思い出はきれいな色彩だけが残っている。私たちが確かに「居た」あの道。これは悲しいまでの、彼女の彼に宛てたひそかなメッセージではないのか。
この「THE WAY WE WERE」という歌は、テレサの1977年(往日情懐に収録)24歳の歌なのである。なぜ、この歌をいまさら再度とりあげたのか。テレサは。意味があるにちがいない。
彼女は、郭氏への思いをまだ断ち切れずにいたのではないか。
しかし、郭氏はこの歌の翌年1987年にテレサ似という日本女性と結婚してしまう。テレサの縁復活の夢は完全に断たれてしまった。
1988年、レコード会社の制作担当だった鈴木章代女史はテレサに所望されてマネージャーのような役割を受け持つことになった。その最初の親交で、テレサは郭氏を本当に好きだったこと、歌手の引退を考えていること、子供を生みたいという願望まで打ち明けている。
帆布と船員帽のことで上記に触れたように、テレサには「ニイ(あなた)」という不思議な日本語の歌がある。(*■20110227テレサ哀しみの歌「ニイあなた」参照のこと)
彼女が1970年17歳のとき中国語で歌った曲の日本語版である。しかし、日本語の歌詞は採譜が信楽順三さんとなっていて、作詞は山上路夫さん。
これは、中国語の歌から日本語の歌へ作り直した、ということである。しかし、いつ?残念ながら、時期を特定する決定打がない。
台湾の歌「夜雨花」の採譜と日本語歌詞を、同じ信楽さんに頼んでいることから、同じ時期つまり1988年ごろではないか、あるいは前年の1987年ころではないか、と思うのだが。
であるとすれば、これはまたまたテレサの隠れたメッセージである。彼女はこの歌を1988年5月に歌っている。
「ニイ」の歌詞は、要約すると見知らぬ国へと来たわたし(フランス)、忘れたくて来た。でも、河のほとりを歩き(セーヌ河)、古いチャペルの音の鳴る街を歩いておしゃれな店をのぞいても、何をみてもあなたのことを偲ぶ。忘れたくて来たのに、思いがつのる、あなたの胸に帰りたい。涙で街がうるむ。
全然要約になってないが、ご容赦。上記に書いたが、パリにはテレサは郭氏と一緒に来ているのである。またとないシチュエーションではないか、この歌の歌詞は。
これがもし彼女が放った隠れたメッセージだとしたら、郭氏はたいした幸福者である。これほど想われるとは。
「THE WAY WE WERE」といい、この「ニイ」といい、なぜこの時期にこの歌を、という疑念がいつまでたってもアタマを去らない。
彼女の、従来からの歌を選ぶ手法から考えても、無作為にとはとても思えないからだ。そのメッセージ性、表意性の存在はそれを抜きにしては彼女の歌はありえない。
恋のテーマにしても、メッセージ性はたしかにあったのではないか。涙の小史は、その私生活上の歌への反映を証明しているではないか。
8、
メッセージ性は縷々述べてきたが、もうひとつ気になる虎柄のメッセージがある。
1986年12月、髪をばっさり切ったテレサは、TBSで(東京での東の有線大賞の席上)緑の地に黒の縞線の虎柄の長手袋で「時の流れに身をまかせ」を歌った。
歌の終わりの場面で、彼女は、マイクのある方の手に虎柄のもう一方の手を引き寄せて祈るように合掌するのである。なぜ虎柄なのか。
調べてみて愕然としたが、これには意味があったのである。新聞報道でも明らかなように、当時ボルネオやインドネシアなどで、森林火災が問題となり、焼畑が原因と言われた。
テレサが虎柄の長手袋をはいて歌った、この同じ1986年、国際熱帯木材機関(ITTO)が設立されている。
しかし、あの当時、インドシナ半島のベトナム・タイ・ラオスなど、はたまたインドネシア、カリマンタン島(ボルネオ)のマレーシア・インドネシア、フィリピンでは毎年森林火災が相次ぎ、アジアの虎が絶滅の危機に瀕していた。ニュースでも煙の上がる衝撃的な映像が流れた。
虎好きのテレサは、その報道に心を痛めていたに違いない。彼女は、その虎の居る地域、そこに実際居住して歌手活動をしていたのだ。
1985年までシンガポール、1986年以降は香港。デビュー15周年記念公演は1983年から1984年である。場所は、東アジアの各首都だ。
だから、緑の虎柄は<虎の棲む森を守ろう>という、隠れたメッセージなのである。
(*ちなみにフィリピンのある女性学者の研究論文によると、この森林火災は焼畑が原因ではなくパーム油をとるための椰子プランテーションの拡充によるものだ、という指摘がある)
またまた、隠れたメッセージである。こんな小道具ひとつを使って思いを込める歌手が他にいるだろうか。
彼女は、目を大きく見せるようにしましょうといって、アイシャドウの塗り方まで自身で気を配っていたというから、衣装をみてもそのとおりで、全部意味があるのである。
いちいち証明はしないが、衣装の形から縫いこまれた刺繍に至るまで、薔薇や百合、あるいはチューリップというキリスト教に関係する象徴の図柄がふんだんに使われている。
画像を見て、次々発見されるその証拠に、わたしは驚き、愕然とした。これほどまでに、と。
彼女は貪欲だった。tvという現代の一番の表現手段と舞台にあって、それをフルに活用しようと、衣装からイヤリング、その歌唱の動作(合掌しかり、腕を天上にあげ振り下ろす仕草しかり)に至るまで完璧に表現した。
彼女が一流のアーチストであり、メッセンジャーである、という何度も力説する理由はこれである。彼女の声の美しさ、歌唱の技術の素晴らしさばかりではないのだ。
ちなみに、テレサの中国人のファンは、彼女がまったく声の息継ぎ音をマイクに拾わせることがない、と驚嘆の声をあげている。これは、ある熱心な女性ファンによると、発声方法の工夫と精進のたまものなのだ、と言っている。
傾聴に値する意見だと思う。なるほどそうなのである。ほかの歌手の場合と比べてごらんなさい。
9、
1985年、つまり婚約解消の次の年、英国でのサマースクール留学2年目を過ごしたこの年の暮れ、テレサは満を持して日本で最初で最後の最大のコンサートをNHKホールで開いた。
空色のメタリックのミニに、黒眼鏡をかけたナウい彼女は、この衣装で一連の英語歌を歌った。その中に、前年1984年に流行った英国Wham! のジョージ・ミッチェルの曲「Careless Whisper(支えようのないつぶやき)」がある。
この歌は、1984年に全英国・全米でヒットチャート1位になった曲という。彼女は乗りに乗って歌った。バックの黒人コーラスもよかったが、彼女はどうしたわけかワムのミッチェルとちがって、うめくような歌い方ではなく、どこか怒ってでもいるような激しい歌い方をした。
そして、歌詞の合間には両手で自分のからだをだき抱きしめるパフォーマンスを見せた。これはよく見ると一方が肩に、一方がウエストに掛かっているのである。これは、チークダンスの擬態だ。歌の内容を表現しているのである。
ことほど左様に、テレサは芸が細かい。意味のある動作や挙動をするのだ、歌っているあいだに。
肝心の歌詞である。
わたしは、次のフレーズに神を見た。
I'm never gonna dance again
Guilty feet have got no rhythm
Though it's easy to pretend
I know you're not a fool
Should have known better that
to cheat a friend
And waste the chance that I've been given
So I'm never gonna dance again
The way I dance with you, oh
<
私はもう、ふたたびダンスすることが出来ない。
誤った足はリズムを刻めない。
うぬぼれてなら、、、、。
君が愚かでないのは知っている>。
*ここまではいい。次である。
<Should have known better that
to cheat a friend>
友達にウソを付いた方がよかったんだろうか。という部分。
これをわたしは意訳して「友だちにはウソつくのは簡単だ」とした。
ウソを付いたって君にはばれちまうんだ、ということである。彼女は馬鹿じゃないから。
あとは、こうである。
<しかし、与えられたチャンスを無駄にしたんだ。
そう、もう踊れない。
君とダンスをすることが!オゥ!>
この「友達」が問題で、「a friend」となっているが、
「a」と単数形となっていることで、親友かひとりの気を許した友だち(ダチ)と解釈してもいいのだが、ウソをつく、という動詞と関連させてみると、友だちに見栄を張ってウソをつく、という意味と、あるいは「たったひとりの友だち」良心の中に住む神という唯一の友だち、という解釈もできるのである。
a friendの言うつぶやきは次のようだ。
「Time can never mend
The careless whisper of a good friend
To the heart and mind
Ignorance is kind
There's no comfort in the truth
Pain is all you'll find」
<時は癒してはくれない。
ダチ=神の容赦ないつぶやき、わたしの心底への。
知らないことは「やさしさ」だ。
真実の中に慰めはない。
悲しみがあなたの見つけるすべて。>
これは悲しむときには悲しむがいい、現在の生を真っ只中で悲喜の中でビビットに生きよ、ということなのだ。地球の生物が、そうしてないと思いますか?それはさておき、
「時は癒してはくれない」なんて、こんな粋な言葉を友だちが吐くだろうか。
偶然にも、わたしの「a friend」=神 という解釈がアップされたあとに、テレサの動画を多数載せている香港シップ名の女性の方が、テレサへの献辞という形で声明を載せている。その中に、同じ言葉を使って、反対の解釈を暗示しているように、見える箇所がある。
それはこうだ。
「as a good friend, at her own convenience, we could've talked about anything.」
<親友として、彼女の手足として、われわれは何についても話すことができました>
とある。普通に受け取れば、グッド・フレンドは素直にひとりの親友ということである。
ならば、「careless whisper」の「a good friend」もそう受け取ってもいいのではないか、ということ。
でもでも、である。また元の疑問に戻る。そんな、高尚な哲学を同じような年代の友が持てるだろうか、持っているだろうか、ということ。
哲学的な、それも精神的な言葉は、キリストこそがふさわしいのではないか。
神がささやいている。心の奥底の良心や真実の声といってもいい。
上の歌詞では「a friend」が「a good friend」となって「good」が加わっている。しかも、その前にはこの歌の題名の「The careless whisper」がくっついているのだ。
しかもしかも、「the」だ。単なるつぶやきに「the」なんて付けるだろうか、ふつう。
そのつぶやき、<時は癒してはくれない>という言葉が「特別」だからだ。その真実を分かっている人が何人いるだろうか、この世の中で。
だからだ、「a friend」は神なのだ。キリスト級でなければ、とてもそういう言葉はすらっとは出てこない。英語には全く自信はないが、そういうことにしておこう(笑)。
そうして、また重要な英語歌が登場する。1989年「Heaven Help My Heart」。
彼女テレサが、どうして天安門事件のあと次のキリスト教的歌である「Heaven Help My Heart」を歌ったのか。
彼女は苦しんだに違いない。自分の行為と以後に起こった事件の犠牲との因果関係において。だから、来日した空港でのインタビューで「なんか、歌うこと、悪いと思って」という言葉が出て来る。じっさい、有田氏との会話ではテレサは事件を思い出すと歌えないと述べている。
だから、HEAVENがわたしを救ってくれる、というフレーズに信仰の思いを託した。しかし、この「HEAVEN」が問題なのである。
わたしは、「神」へのこだわりから、あえて「ヘブン」を神と訳したのだが、それがもし「天国」というそのものの意味だとしたら、との考えがアジアのある街を歩行中に突然浮上して、わたしの心を震撼させた。
わたしは、そこで「LOST HEAVEN」(失われた天国)という文句に突然出会ったのである。
その店はいわゆる古物商だった。古きよき時代が失われてしまった、という慨嘆をこめたフレーズだが、それを商売にしているところがなんとも矛盾するが、それはさておいてテレサの歌った英語歌がこうして又解釈の変更を迫られたのである。
彼女は、もうこの段階で、自殺さえ考えていたのだろうか、という疑念が突然湧いた。しかし、キリスト教徒は自殺は禁止行為のはずである。自分の身体は、神が与えてくれたもの、という教えだからだ。
HEAVENが神の意味として歌った、とわたしは考えたかった。
振り返ってみると、彼女は1884年に婚約を解消し、心に深い傷を負った。そして、1987年追い討ちを掛けるように1987年郭氏は結婚してしまう。
1985年のNHKコンサートで、心の痛手を振り払うように「Careless Whisper」をカタルシスのようにぶちまけていたのに、そうして
<知らないことは「やさしさ」なんだ。
真実の中に慰めはない。
悲しみがあなたの見つけるすべて>
悲しいときには悲しむがいいんだ、という人生哲学的な教訓を歌い、悲痛な叫びを発していたのに。その「昇華」は、郭氏の結婚で帳消しになってしまった。つまり、傷のさめやらぬ内に、ということ。
恋の痛手についで、今度は政治の痛手が追い討ちを掛ける。1989年天安門事件。
なぜ、彼女は「Heaven Help My Heart」を歌ったのか、再度問いを発しなければならない。天国が私を救う、という意味ではない、と思う。
「Heaven Help My Heart」は、じつは1980年にアメリカのミュージカルSUGAR BABIES(the staelite orchestra singers)の中でチェスが歌っているらしい(日本語)。
1980年といえば、テレサはアメリカから台湾に帰国した年に当たる。テレサは、すでに1980年初頭にはこの歌を知っていただろう。(ティナ・アリーナが「Heaven Help My Heart」を歌うのは、1990年代に入ってからだからテレサが先。)
なら、きっと1989年にこの歌を歌ったのは、ずっと心に温めていたからに他ならない。歌を歌うには、それなりに練習しなければならない。
それは、もっと前の歌詞の中に秘密がある。
問題のその歌詞は、
The day that I find
Suddenly I've run out of secrets
Suddenly I'm not always on his mind
わたしが見つけたその日。
突然、わたしは秘密から抜け出す
突然、わたしはもう彼の心には居ない
Maybe it's best to love a stranger
Well, that's what I've done
Heaven help my heart
Heaven help my heart
見知らぬ人を愛するのがベストでしょう、たぶん。
そう、それは私がしたこと。
神さまが私を助けてくれる。
神さまが私を助けてくれる
「見知らぬ人を愛するのがベストでしょう、たぶん」は
よく理解できない部分。
なぜ捨て台詞みたいに<見知らぬ人を愛するのが一番いいだろう>なんて言うのだろう。そして、天国がわたしを救ってくれる、というところまで突っ走る。これは自暴自棄的女性のヒステリーなのか。
全部を概観してみよう。
<
If it were love I would give that
もしわたしが与えられる愛があったとしたら、
love every second I had
わたしが持っていた常に二番目の愛
And I do
そしてわたしはするだろう
Did I know where he'd lead me to?
わたしは知っていたんじゃないのか、どこへ彼が導くかを。
Did I plan
わたしは計画したんだろうか?
Doing all of this
この全てをすることを。
for the love of a man?
ひとりの男の愛のために。
But I let it happen anyhow
しかしわたしはとにかくそうするだろう
And what I'm feeling now
そして今感じている何かを。
Has no easy explanation
簡単な弁解じゃない
Reason plays no part
理由は分解できない
Heaven help my heart
神さまはわたしを救ってくれる
I love him too much
わたしは彼をとても愛している
What if he saw my whole exstence
Turning around a word,
a smile , a touch?
彼がわたしの完全な「精髄」を見たというのは
言葉の周りを巡ってること。
(それは)微笑みなの?触れ合いなの?
One of these days,
and it won't be long
He'll know more about me
Then he should
All my dreams will be understood
それら日のある日に
そしてそれは長くはなかった
彼はもっとわたしを知るだろう
そして彼はそうすべきだった。
(そうすれば)わたしの夢すべてが理解されたのに。
No surprise
Nothing more to learn from
the look in my eyes
Don't you know that
time is not my friend
それは驚きなんかじゃない
わたしの目の中を見たって何もないよ
あなたは知っているの
時はわたしの友じゃないってことを
I'll fight it to the end
Hoping to keep that best of moments
When the passions come
Heaven help my heart
わたしは終りまで闘うでしょう
とてもいい時間がついにはじけ
受難が訪れるとき
神さまが私を救ってくれる
The day that I find
Suddenly I've run out of secrets
Suddenly I'm not always on his mind
Maybe it's best to love a stranger
Well, that's what I've done
Heaven help my heart
Heaven help my heart
わたしが見つけたその日に
突然わたしは秘密から抜け出す
突然わたしは彼の心には居ない
見知らぬ人を愛するのがベストでしょう、たぶん。
そう、それは私がしたこと。
神さまが私を助けてくれる。
神さまが私を助けてくれる
(後半部分のみ我輩の訳。当たっているかどうか疑問)>
*やっぱりheavenは神だね。天国では意味が通じない。
これはやけっぱちの歌だね。
男との関係の深みに入って苦しくなったんだね。
自分と彼とが違うということがつくづく分かった。
その秘密を知ってしまった。
ふたりは決して一体にはなれない。
やけっぱちに見知らぬ男を愛することが一番いいんだろう、ということにしちまえ。
そしてそうした。
(でも、苦しいよ、失望が残ったよ、落ち込んだよ)
神さまがわたしを救ってくれる
神さまが救ってくれる
(天国じゃないよ)
男との関係、異性との愛の苦しさを歌っているから、テレサには共感できる部分があったに違いない。そして、神さまがたよりだった、そういう苦しい時期を彼女も経験したということではないのか。
だから、この歌を歌える、歌おうと思ったのではないか。
追加すると、一番のポイントは「Don't you know that time is not my friend」(あなたは知っているの、時はわたしの友じゃないってことを)だ。careless whisper の「時は癒してはくれない」となんと似ていることか。
彼女テレサは、自分の恋でそう身に沁みたのだろう。時間がたっても恋の痛みは去らない、と。
10、
もういちど、1985年NHKコンサートで歌った「ジェルソミーナの道」を考えてみよう。
彼女はなぜ、このジェルソミーナを歌ったのか。それがキリストの愛、神の愛を歌っているからだ。決して裏切らない、決して離れない。もう一度、この映画のタイトルを思い出してほしい。
副題<Gelsomina de Amigas de Verdade>=「バルデーダの友ジェルソミーナ」。
わたしはキリスト教徒ではない。むしろキリスト教も仏教も否定する無神論者である。
しかし、テレサの心の軌跡に寄り添うとき、わたしはこの「万人への愛」を避けて通ることはできない。彼女がなぜ、民主化運動支援集会に駆けつけたか、それはこうした万人への愛、普遍的な愛を彼女が信条にしていたからではないのか。
1989年の中国民主化運動支援集会へ参加する伏線は、彼女の過去からすでにあったのである。
テレサの長年の唯一のマネージャーだった女性と思われる、香港シップの人物は、その献辞の中でこう言っている。
<私の彼女に対する献辞というのは、音楽というだけではなしに、人間的にも、世界的な人物の中においても、卓越した、典型的な性という壁を壊した中国女性という格別の存在であり、その偉大な人間存在のもつ「親切、友情、敬意、慈愛」は、わたしの価値の光だということです。>
ここに述べられている、誇るべき徳は、テレサが「淡淡幽情」で表現しているものだ。彼女がキリスト教的に自分を律していた、あるいは目指していた心の価値とはこのようなものではなかったか。
「タイムトンネルを通りぬけて、古代詩人の世界に入ったように、人生・国家・郷愁・親情・友情・愛情等、目の前に鮮明に浮かび上がってきました。」
「温情満人」。これが彼女とおそらく密接な関係にあった人物がyoutubeで彼女を表現した言葉である。「温かい心に満ちた人」。
だから、ずっと以前から彼女にとっては、あの行為へ飛翔する下地はすでに出来ていたのである。それが不幸を呼んだにしろ。
11、
テレサの年表の一部だけ時系列的に歌を見てみる。恋と歌とを概観する。彼女の心の揺れが見えるようだ。
1985年「careless whisper」
1985年「ジェルソミーナの歩いた道」
1986年「The Way We Were」
1988年「ニイ」
1989年「heaven help my heart」
彼女は制作係担当の鈴木女史に人生の意味を考える歌、を歌いたいと言っていた。そして三木荒木のゴールデン・コンビの新曲を拒否した。
死後遺されたテープには、以下の英語の曲目が吹き込まれていた。
5.Abraham, Martin And John
6.Smoke Gets In Your Eyes (ボサノヴァ調)
7.What A Wonderful World (レゲェ調)
8.Let It Be Me (レゲェ調)
9.Heaven Help My Heart
この中で、すでに取り上げたのは、9番だけ。8番は男のわがままが露骨なのでわたしは評価はしない。彼女は単に恋の歌と受け取ったのだろうけど。
7番はCMにもなった人生讃歌だし、ヴェトナム戦争反対の反戦歌として作られたという歌。「煙が目に沁みる」は勿論失恋の歌。
彼女が自ら選んだだけあって、彼女の思いどおりに、人生を考えさせられる人生の酸いも甘いも表現する歌だ。彼女は、困難な障害にあって歳相応のよい経験を積んだ。だから、煙が目に沁みるのである。
12、
パリで、彼女はその貴重な経験を幸福につなげれなかった。だれが悪いということではない。それが彼女の宿命だった。
私事になるが、わたしは幼い頃「テレジア幼稚園」に通っていた。このテレサの探究の旅を始めて随分たってから、自分の過去を回想しているうちに、テレジアという名前が「テレサ」と同じ名前なのだということに、突然気づいた。なんという間抜けだろう。今ごろになって、、。
テレサという名前は、聖テレサ(1515–1582)から来ているらしく、テレジアも読み方の違いだけのようだ。これに気づいた時、わたしはテレサとの縁をつくづく感じた。
というのは、彼女の選ぶ衣装の色使いは、わたしの好みとぴったり一致していたからだ。
まあ、中国的なピンクや派手な黄色は別としても、ブリティッシュ・グリーンやあずき色のような落ち着いた暗赤色や、濃厚な群青色や、しっとりとした黄土色などは、まるで私の好きなモジリアニの色使いのように思えてならなかった。
こう言っちゃ天才歌手に失礼だが、またわたし如きが及びもつかないのだが、まるで「よく出来た妹」みたいな女性だった。血液型が同じということも関係あるかもしれない。脱線した。
わたしは数十年前、長い通勤の帰途の途中にいた。冬の近づいた季節、太陽の沈むのは早く、街道はすでに真っ暗になっていた。自宅に近づいた道が陸橋に差し掛かると、わたしの前を走るクルマの長い長い列が、まるで蛇行して生き物のようにうねって続いているのが見えた。
クルマの無数の尾灯は、綺羅星のごとく輝いていた。わたしは、生命の天の河だ、と思った。ああ、このクルマの主たちにも帰る家があり、その帰るうちには家族やそれぞれの人がいて、それらはみな生命で、それぞれの人生を持っているのだと思うと胸が熱くなった。
町のそこここに灯る家々の明かり。その中に、それぞれ大切な人生がある。同じ感慨をこうして尾灯の天の河に見たわたしは、自分以外の存在を象徴的に教えられたような気がする。
誰にとっても、人生は真面目で真摯なものである。
テレサ・テンを探究することによって、わたしは懸命に、真摯に人生に向き合い、生きたある女性の物語に触れた。それは、彼女だからというではなしに、他の、より任意に惚れた歌手の生涯でも見られる、感じられることなのかもしれない。
ただ、もうわたしの生きている時間のうちに、もうひとりの惚れた人は現われないだろう。そういう意味では、テレサ麗君は貴重な経験を与えてくれた。彼女にありがとう、と言いたい。
最後に、彼女の日本語歌の最高峰と思われるのに、天安門事件があって彼女の傷ついた心情からすぐさまお蔵入りとなった「香港・・hong kong・・」の歌詞を上げて置きたい。
(*_から_(涙)の下線の部分はテレサが1989年10月収録11月24日放送のTBS「テレサ・テン愛の15周年」番組で実際に涙を流しながら歌いあげた部分です。作曲三木たかし、作詞荒木とよひさ)
「_星屑を地上に蒔いた(涙)_ この街のどこかに
思い出も悲しみさえも いまは眠っている
_この広い地球の上で(涙)_ くらしている人達
誰もみんな_帰るところを(涙)__持っている(涙)_はず
ああぁ、人はまぼろしの夢を追いかけて
生きている_だけならば(涙) はかな(涙)_すぎる
_なぜに私は(涙) 生まれて来たの(涙)_
_なぜに心が淋しがるの(涙)_
銀色の翼をひろげ まだ知らぬ国(異国)へと
いつの日か旅立つならば そばに愛する人
時が過ぎ時代が変わり 若き日をふり向き
_心だけが帰るところはきっとこの街(涙)_」
以下省略。(「なぜに・・」の2行を含んで、その前の2行の変化した詞の繰り返しが2回)
いろいろな死因説が流れているが、わたしには決定的な判断をする能力も材料もないのでこれには触れない。
<鄧>の字が表示されないように、細工されている。何者によるものか、fc犯人か。
20120730teresa gaironn
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