びーかん日記
尾行と監視され日記、略して「びーかん日記」である。これは、公然たるコーアンとその手先のイジメと弾圧の記録だ。花、鳥、蝶も少々。
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110226基督教の山下りんとR・玉の百合
■110226基督教の山下りんとR・玉の百合
*
日本がまだ明治にも開け切らんばかりの頃に、イコン(聖画像)の画家である山下りんとラグーザ・玉という二人の画家がいた。
若桑みどりさんが「女性画家列伝」(岩波新書)の中で、日本人のこのふたりを取り上げていた。
1、
わたしは、何年も前になったが、母が生きていた時に、大館市の東端にある(曲田)、古い平屋の木造教会を地図を頼りに訪ねて行ったことがある。
其の頃、私は周辺の名跡や滝や巨木を尋ねて歩いていた。何の資料で知ったか忘れてしまったが、たしかにイコンの作家でロシア帰りの女性の作になるもの、という。
大館から鹿角へ東に抜ける街道沿いに、大きくカーブしかかる右手の、集落の始まり辺にそれはあった。
白くペンキの剥げかかった四角柱の、観光名所案内がその場所を示してはいたが、さんざん右往左往した挙句、通りかかった住民に聞いてようやくたどり着いた。
明治の洋風木造建築で、このころの和洋折衷の建築様式をよく残していた。この形式は、弘前の教会でも見られるし、北海道・江別でも歴史館として保存されている。
着いたは、いいものの、見学の方は電話をして下さい、と看板があった。ひなびて、ひっそりとしている。
あらら、住んでる人はいないのか、さもありなんと、仕方なく公衆電話から電話を掛けたら、じゃあ待っててください、すぐ行きますから、という。
たしか教育委員会か何処かと思う。
来てもらった職員の案内で、あまり広くもない教会に入った。確かに、板に描かれたようなキリストか聖母マリアの絵を見た気がするのだが、いまとなっては記憶が消えてしまった。
その時は、なんだ稚拙な絵ではないか、とばかにした、気分のような気がしている。
(この住所の先には、ドーム上の塔を戴いた風変わりな古い洋館もあって(軽井沢という地名)、何か関係があるのかもしれないが、行ってみたら只の私邸のようだったから、其れ以上は深入りしなかった)。
2、
若桑さんの「列伝」を見ると、山下りんの略歴が簡潔に記されている。
りんは、なんと茨城笠間の下級武士の家に生まれて、家出して明治9年1876に設立された、国立の工業美術学校に入学してるのだね。生まれは安政4年1857年。
ところが、先生にろくなのが来なかった。りんは、物足りなくなって、とうとうロシアに渡った。
また、これが不幸なことにルネッサンスの伝統を引き継いだ、ヨーロッパ西方の教会のイコンではなく、がんじがらめの形式ばったビザンティンの古い画風を守ろうとしたギリシャ正教会のロシア・イコン絵画の教育に、行ってしまった。
彼女は、尼さん教師や同僚の「へたくそ」に耐えられず、すぐ傍にあったエルミタージュ美術館に通って、熱心に写生するが、これまた学校に禁止されてしまう。
強制される画風と、望む自由な闊達たるヨーロッパ西部の画風とに、引き裂かれたまま、彼女は体をこわし、明治16年1883年に帰国し、ニコライ主教の修道院で35年にわたって黙々と正教会のために150点のイコンを製作した、という。
とここまでは、履歴の概観なのだが、その絵が扉のカラー写真で載っている。
さすがに古く色がセピアに変色しているが、「天使長ガウリイル」の左手に持っているのは、まさしく白百合ではないか。(須賀ハリストス教会)
山下りんの「天使長ガウリイル」。
さんざんぱら、テレサ・テンで言及した百合である。純潔の象徴。やはり、りんは手抜きしていない。鮮やかに写し取って人物よりも引き立っている。
そして、よく見ると、天使長の目に、輝きがあるのが分かる(生命感)。これぞ、ルネッサンスの方の「流れ」なのだろうね。少女漫画ぽい、となんとかの美術コメンテーターが言ったらしいけど。
ははぁ、である。写真で勉強させてもらった。
3、
もう一人の、R・玉。
これもすごいぞ。彼女は1861年生まれ。いやはや。
<ラグーザ・玉(-たま、文久元年6月10日(1861年7月17日) - 昭和14年(1939年)4月6日)は、日本の女性画家。旧姓清原、幼名多代。ラグーザお玉とも表記される。また西洋名はエレオノーラ・ラグーザ (Eleonora Ragusa)。夫は彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザ>WIKI。
<若い頃から日本画、西洋画を学んだ。1877年、工部美術学校で教鞭をとっていた彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザと出会い、西洋画の指導を受けた。また玉はヴィンチェンツォの作品のモデルも務めた。
1880年にヴィンチェンツォと結婚。2年後の1882年に、夫婦でイタリアのパレルモに渡行し、パレルモ大学美術専攻科に入学、サルバトーレ・ロ・フォルテに師事した。1884年には、ヴィンチェンツォがパレルモに工芸学校を開設し、玉は絵画科の教師を務めた。
また画家としても、パレルモやモンレアーレ、シカゴなど各地の美術展や博覧会で受賞(1等賞多し)するなど、高い評価を得ていた。
1927年に、夫のヴィンチェンツォと死別。東京美術学校にヴィンチェンツォの遺作を多数寄贈し、1933年、51年ぶりに日本に帰国した。帰国後は画業に集中した>。
「列伝」には、夫の死後日本に帰国しようとしたが、国籍を失なって、帰国を拒否されたという。それで、彼女はすっかり日本語を忘れてしまった。
祖国への失望から、その断念の証拠である。
彼女の描いた絵画が、ふたつ掲載されている。薔薇の静物画と、淑女が花を摘んで帰る図である。
薔薇の絵は言うまでもないが、キリスト教の題材である。わたしの中学の美術の先生は薔薇を書くことが多かったが、そのわけが今までは分からなかった。遠い理由があったのである。
R・玉の「春」。左が「5月の薔薇」の部分。
もうひとつの、淑女の絵には、彼女が摘んで抱えた「白百合」がリアルに描かれている。
青い衣装は、貞節を表わすのだとか。
この絵には、重要なキリスト教的象徴がすべて描かれている。
右手の遠くの対角線には、蓮の浮かぶような池(モネの絵のような)、そしてその池の手前には、あろうことか、椰子の木(豊穣のシンボル)。
また窪んだ皿のように横を切り取る森の小径には、淑女の後ろに、すっくと立ち上がっている古木があり、そこにはあたかも「ロータス(蓮)」のような先の赤い花が咲いている。
その葉は、栃か朴の木の葉のように八方に開いているが、もっと厚肉で徹底的に南国、エジプトを想起させる(豊かな永遠の生命)。
(これは、もしかして十字架の構成なのではないか。キリストの位置に蓮があるのである。横の小径は十字架の横木である)。
横線の小径を下って降りようとする淑女の、左手前に白い百合ば決然と象徴的に立っている。また、右の草むらにも白百合が茂っている。
あくまでも、シンボライズされたキリスト教的絵画なのである。
若桑さんは、この玉の絵を、西洋のリアリズムと象徴主義の結晶だと、言っている。
なるほど、である。ただ、通俗的だとは批判しているが。
玉は、シチリアの金持ちの大広間に、「天楽礼讃」というバロック風の神話画の傑作を描きあげたそうだ。
彼女が40歳になった時、彼女の住んでいたパレルモの人々が大祝宴会を開き、詩人のがえたーの・ふぃのっきあーろが、「咲きいづる花」という讃歌を詩ったとか。
本文中に紹介されている、もうひとつの「逃げた小鳥」の絵には、幼児が鳥を取ろうとする、手の先に、籠いっぱいの白い牡丹が描かれている。
白い牡丹は、じつは薔薇なのだという。彼女は、郷愁のためか薔薇をボタンのように描くのだ。
薔薇も品種改良されているから、牡丹風の薔薇もいまではあるだろう。椿も、改良されて薔薇とみがもうそれもあるのだから。
4、
薔薇と百合がいかに「象徴」であるか、キリスト教徒には自明であろうと、無縁のものには、自覚なしには現れない「象徴としての世界」なのである。
テレサがいかにキリスト教的であったか、思い知らされる思いがする。彼女がチャリティーに熱心で、決して欠かそうとしなかった理由が、ここにある。
死の直前、日本での最後の歌唱となった仙台のコンサートは、やはりチャリティーだった。体調の悪かったテレサは、あくまで行こうとする自分と、それを簡単にやめればと推しとどめようとするステファンと、喧嘩して来日したという。
*
日本がまだ明治にも開け切らんばかりの頃に、イコン(聖画像)の画家である山下りんとラグーザ・玉という二人の画家がいた。
若桑みどりさんが「女性画家列伝」(岩波新書)の中で、日本人のこのふたりを取り上げていた。
1、
わたしは、何年も前になったが、母が生きていた時に、大館市の東端にある(曲田)、古い平屋の木造教会を地図を頼りに訪ねて行ったことがある。
其の頃、私は周辺の名跡や滝や巨木を尋ねて歩いていた。何の資料で知ったか忘れてしまったが、たしかにイコンの作家でロシア帰りの女性の作になるもの、という。
大館から鹿角へ東に抜ける街道沿いに、大きくカーブしかかる右手の、集落の始まり辺にそれはあった。
白くペンキの剥げかかった四角柱の、観光名所案内がその場所を示してはいたが、さんざん右往左往した挙句、通りかかった住民に聞いてようやくたどり着いた。
明治の洋風木造建築で、このころの和洋折衷の建築様式をよく残していた。この形式は、弘前の教会でも見られるし、北海道・江別でも歴史館として保存されている。
着いたは、いいものの、見学の方は電話をして下さい、と看板があった。ひなびて、ひっそりとしている。
あらら、住んでる人はいないのか、さもありなんと、仕方なく公衆電話から電話を掛けたら、じゃあ待っててください、すぐ行きますから、という。
たしか教育委員会か何処かと思う。
来てもらった職員の案内で、あまり広くもない教会に入った。確かに、板に描かれたようなキリストか聖母マリアの絵を見た気がするのだが、いまとなっては記憶が消えてしまった。
その時は、なんだ稚拙な絵ではないか、とばかにした、気分のような気がしている。
(この住所の先には、ドーム上の塔を戴いた風変わりな古い洋館もあって(軽井沢という地名)、何か関係があるのかもしれないが、行ってみたら只の私邸のようだったから、其れ以上は深入りしなかった)。
2、
若桑さんの「列伝」を見ると、山下りんの略歴が簡潔に記されている。
りんは、なんと茨城笠間の下級武士の家に生まれて、家出して明治9年1876に設立された、国立の工業美術学校に入学してるのだね。生まれは安政4年1857年。
ところが、先生にろくなのが来なかった。りんは、物足りなくなって、とうとうロシアに渡った。
また、これが不幸なことにルネッサンスの伝統を引き継いだ、ヨーロッパ西方の教会のイコンではなく、がんじがらめの形式ばったビザンティンの古い画風を守ろうとしたギリシャ正教会のロシア・イコン絵画の教育に、行ってしまった。
彼女は、尼さん教師や同僚の「へたくそ」に耐えられず、すぐ傍にあったエルミタージュ美術館に通って、熱心に写生するが、これまた学校に禁止されてしまう。
強制される画風と、望む自由な闊達たるヨーロッパ西部の画風とに、引き裂かれたまま、彼女は体をこわし、明治16年1883年に帰国し、ニコライ主教の修道院で35年にわたって黙々と正教会のために150点のイコンを製作した、という。
とここまでは、履歴の概観なのだが、その絵が扉のカラー写真で載っている。
さすがに古く色がセピアに変色しているが、「天使長ガウリイル」の左手に持っているのは、まさしく白百合ではないか。(須賀ハリストス教会)

さんざんぱら、テレサ・テンで言及した百合である。純潔の象徴。やはり、りんは手抜きしていない。鮮やかに写し取って人物よりも引き立っている。
そして、よく見ると、天使長の目に、輝きがあるのが分かる(生命感)。これぞ、ルネッサンスの方の「流れ」なのだろうね。少女漫画ぽい、となんとかの美術コメンテーターが言ったらしいけど。
ははぁ、である。写真で勉強させてもらった。
3、
もう一人の、R・玉。
これもすごいぞ。彼女は1861年生まれ。いやはや。
<ラグーザ・玉(-たま、文久元年6月10日(1861年7月17日) - 昭和14年(1939年)4月6日)は、日本の女性画家。旧姓清原、幼名多代。ラグーザお玉とも表記される。また西洋名はエレオノーラ・ラグーザ (Eleonora Ragusa)。夫は彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザ>WIKI。
<若い頃から日本画、西洋画を学んだ。1877年、工部美術学校で教鞭をとっていた彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザと出会い、西洋画の指導を受けた。また玉はヴィンチェンツォの作品のモデルも務めた。
1880年にヴィンチェンツォと結婚。2年後の1882年に、夫婦でイタリアのパレルモに渡行し、パレルモ大学美術専攻科に入学、サルバトーレ・ロ・フォルテに師事した。1884年には、ヴィンチェンツォがパレルモに工芸学校を開設し、玉は絵画科の教師を務めた。
また画家としても、パレルモやモンレアーレ、シカゴなど各地の美術展や博覧会で受賞(1等賞多し)するなど、高い評価を得ていた。
1927年に、夫のヴィンチェンツォと死別。東京美術学校にヴィンチェンツォの遺作を多数寄贈し、1933年、51年ぶりに日本に帰国した。帰国後は画業に集中した>。
「列伝」には、夫の死後日本に帰国しようとしたが、国籍を失なって、帰国を拒否されたという。それで、彼女はすっかり日本語を忘れてしまった。
祖国への失望から、その断念の証拠である。
彼女の描いた絵画が、ふたつ掲載されている。薔薇の静物画と、淑女が花を摘んで帰る図である。
薔薇の絵は言うまでもないが、キリスト教の題材である。わたしの中学の美術の先生は薔薇を書くことが多かったが、そのわけが今までは分からなかった。遠い理由があったのである。

もうひとつの、淑女の絵には、彼女が摘んで抱えた「白百合」がリアルに描かれている。
青い衣装は、貞節を表わすのだとか。
この絵には、重要なキリスト教的象徴がすべて描かれている。
右手の遠くの対角線には、蓮の浮かぶような池(モネの絵のような)、そしてその池の手前には、あろうことか、椰子の木(豊穣のシンボル)。
また窪んだ皿のように横を切り取る森の小径には、淑女の後ろに、すっくと立ち上がっている古木があり、そこにはあたかも「ロータス(蓮)」のような先の赤い花が咲いている。
その葉は、栃か朴の木の葉のように八方に開いているが、もっと厚肉で徹底的に南国、エジプトを想起させる(豊かな永遠の生命)。
(これは、もしかして十字架の構成なのではないか。キリストの位置に蓮があるのである。横の小径は十字架の横木である)。
横線の小径を下って降りようとする淑女の、左手前に白い百合ば決然と象徴的に立っている。また、右の草むらにも白百合が茂っている。
あくまでも、シンボライズされたキリスト教的絵画なのである。
若桑さんは、この玉の絵を、西洋のリアリズムと象徴主義の結晶だと、言っている。
なるほど、である。ただ、通俗的だとは批判しているが。
玉は、シチリアの金持ちの大広間に、「天楽礼讃」というバロック風の神話画の傑作を描きあげたそうだ。
彼女が40歳になった時、彼女の住んでいたパレルモの人々が大祝宴会を開き、詩人のがえたーの・ふぃのっきあーろが、「咲きいづる花」という讃歌を詩ったとか。
本文中に紹介されている、もうひとつの「逃げた小鳥」の絵には、幼児が鳥を取ろうとする、手の先に、籠いっぱいの白い牡丹が描かれている。
白い牡丹は、じつは薔薇なのだという。彼女は、郷愁のためか薔薇をボタンのように描くのだ。
薔薇も品種改良されているから、牡丹風の薔薇もいまではあるだろう。椿も、改良されて薔薇とみがもうそれもあるのだから。
4、
薔薇と百合がいかに「象徴」であるか、キリスト教徒には自明であろうと、無縁のものには、自覚なしには現れない「象徴としての世界」なのである。
テレサがいかにキリスト教的であったか、思い知らされる思いがする。彼女がチャリティーに熱心で、決して欠かそうとしなかった理由が、ここにある。
死の直前、日本での最後の歌唱となった仙台のコンサートは、やはりチャリティーだった。体調の悪かったテレサは、あくまで行こうとする自分と、それを簡単にやめればと推しとどめようとするステファンと、喧嘩して来日したという。
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