びーかん日記
尾行と監視され日記、略して「びーかん日記」である。これは、公然たるコーアンとその手先のイジメと弾圧の記録だ。花、鳥、蝶も少々。
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110202二つの念仏「やませみの鳴く谷」追加
■110202二つの念仏「やませみの鳴く谷」追加。
1、
*「村の秋」。
著者は、鴨長明と源左を対置して紹介する。
源左の資料:柳宗悦「妙好人論集」「妙好人因幡の源左」。「妙好」とは梵語で「ふんだりけ」、意味は白蓮華、ひいてはその花のような清らかな信心。妙好人はそういう篤い信仰心の人をさす。
鴨長明は、現世から隠遁したけれど、その書き物はみな過去への未練であふれている。世捨て人になってさえも、まだ自我の価値の再確認に忙しく、それを離れることができない。
これと対照的に、農民の源左は、知識がないからこそ真理に到達した。
源左は、父親が死ぬ間際にこう言われた。「わしが死んだら親さまを頼め」。
「親さま」は「阿弥陀如来」ということであり、真宗なのである。「頼め」とは「頼りにしろ」、それを頼りに生きていけ、ということだ。
源左は、死ぬということがどういうことか、そして親さまとはどんなものか、その二つがどうしても得心できない。本山へ行ってもだめだった。
ある日、野に居て彼は気づいた。そうか、わしは牛と2人(笑)で暮らしているが、わしはこうして助けられて暮らしている。自分の存在を自分は背負いきれないのに、親さまは黙々と背負ってくれる。
凡夫は聖人にならなくても、凡夫のままで往生できる。それが、他力宗の願いである。「源左や、わしと一緒に極楽へ行こう、わしが必ず極楽に行かせてあげる」。
(*つぶやき=極楽も地獄もなかったらどうなるのだろう。阿弥陀如来がほんとは存在しなかったらどうなるのだろう)。
その日から、源左の考えは変わった。すべてが仏縁になった。親さまの有難さを感じながら暮らすようになった。
親さまは、知識で理解するものではなかった。親さまの「慈悲」を受け入れるときに、分かる。
源左は、普通の暮らしをしながら、その精神が往生を遂げた。それは、彼が自分を「悪い凡夫」だと思っていたからだ。
人は、自分の存在を丸ごと背負い切ることができない。そこから、悪は生じる。悪は、偽り、猜疑、妬み、恨みなど。源左は、自分を知れば知るほど自分の悪を認識した。
でも、本来、人は善も悪もなく存在している。現実の世界は、しかし善悪の中で生きる。それで、「無性の人間」を見失う。
(*註:「無性」とは「悪性」と「善性」両方ないということなのだろう)。
無性であることを離れ、善悪の只中にある現実的自己。悪とはこのこと自体にあるのではないか。
これは、三つの悪(1、単純に悪事をなすこと、2、悪をなして現実存在を得ること、3、無性から離脱しての現実的存在の悲しさ)の最後のそれである。
<本質の世界に還るのが往生。これを保障してくれるのが阿弥陀様。その大慈悲を受けることが他力宗>。
<親さまは自分に代わって悪を背負ってくれた。そして極楽に連れて行ってくれると感じたとき、無性の人間存在の世界が広がって行った。源左はそれに対し、ただ念仏を唱えるばかりだった>。
(*つぶやき=「悪」ってなんだろ。善悪は、価値観である。しかも、極端に道徳的な。しかし、それはあることは或る面から見れば悪であることが、ある面から見れば善であることもあるのである。
価値観は、文明の価値観でもあるし、非文明の価値観でもありうる。だから、両極に振れる。そんなものを尺度に宗教を組み立ててどうする。
親さまは居ないかもしれない。極楽もないかもしれない。「なみあみだぶつ」とは、苦悩を背負ってくれるヒーローにすべて自分を捧げます、という意味だ。「なみ」とは、あずける、ということ。
自分の考えなしに、どうして神(ほとけ)だのみだけで生きていけよう。神も仏も、なみあみだぶつだけでは救ってくれないかもしれない。
あずけてばっかりで、自分の考えなしに、他に頼って流される人生は、戦前の軍国主義でも否応なしに組み込まれ、協力することになる。上からの支配的階層社会への羊的服従。
ただ、親さまを阿弥陀如来ひいては取り巻くすべての周辺物(縁)として、生かされているという感謝の思想は、近代的個人の自我優先の思想(それは大地と共同体から切り離された哀れなひしゃげた賃労働者の思想だ)、利己主義を超える思想を含んでいる。
それは、共同体の思想や自然内包的人間の存在論の思考なのである。
だから、それは宗教に名を借りた、別の哲学なのかもしれない。これだと、別に教団を度外視しても心の中に住まわせることができる、信条なのである)。
2、
「他人の縁は偶然から始まるが、慈悲の縁は悲しさから始まる」。
<次の家は、ばあさんの一人暮らしなんだが、静かに仏壇の前で手を合わせてくれないか。亭主もひとり息子も戦死しちまった。40年以上もひとりだからな。そうしてあげたいんだ>。
<仏のようなばあさんでな。成仏しちまった亭主や息子はどうでもいいんだが、仏さまのご恩を受けて生きている人なんでな>。
「本山にも何度かのぼってなあ、怖いものもなくなった。分別もなくなった。なすがままに生きている。南無阿弥陀仏となえてなあ。
あのばあさんにかかると、すべてが善知識になる。わしはあのばあさんの心をこわしたくないんだなあ」。
冬支度の話になった。
ばあさんに支度をきくと、「昔の半分もせん、だらしなくていつも苦しゅう思ってる、昔は薪お味噌も2年分も3年分もあった。今じゃようせん」。
この分じゃ、しまいには死んでから念仏となえるようになるだ、自分がだらしなくなっていくのが、よう分かる。
昔はのんびりしてたなあ、3年分も薪を積み上げると豊かな気持ちになった。よかったなあ、了三郎。
「わしなど、1年中なんまいだの気分だった。大地に光がさして、大地がわしの親さまで、光が親さまで、村が親さまで、わしがわしの親さまで、なんまいだ、で、温っかくってなあ」。
わしだって昔ばなしはする。
「了三郎、わしはこの齢になって苦しゅうてなあ。自然に昔話が出るだ。昔に帰りたくなるだ。
親さまが助けてくれるだから、この世は極楽だと思っていたが、極楽が消えていくだ。地獄が見えてくるだ。この世が地獄だから、親さまはいるだ。
これは異安心ではなかろうか、と思うと苦しゅうてなあ。
毎日、なんまだ、口について出るだよ」。
「ばあさんが、極楽、地獄の分別しちゃまずかろうが」
「了三郎、分別しちゃまずかろうも分別だぞ。
自然に(口を)ついて出るものは仕方なかろうが。わしが出すんじゃねえ、親さまがそう言わせるだ。
なあ、了三郎。気がついたら何もないだよ。みんな取られただよ。何もかもなくなってるだよ。昔に帰りたいだ、了三郎」。
(*ばあさんは「みんな取られただよ」と言う。亭主も息子も昔のような「力」も。ばあさんにとっては、「老い」はどうしても「極楽」ではなく「地獄」になってしまう。何も言えない。)
3、
「1990年の旅」。
1990年、テレサ・テンが前年からパリに腰を落ち着けた翌年、ステファンと出会った年である。内山さんもパリに行っていた。
パリ・コミューンの銃殺戦士の墓と、そこのマロニエの話はこの旅から書かれた。
パリには、日本人がブランド物を漁りに大勢訪れてあふれていた。パリは変わった。昔のパリではない。もう、アメリカと同じように、利益を追求するただの物欲の街になった。
内山氏は、パリから社会主義の崩壊した東ドイツに行った。なにもかも、金銭欲の横溢してしまった街の様子を見た。そこには、小さな利益をぎらぎらした目で追う、大口の笑いがあった。
東ベルリンにも行った。そこには、崩壊の社会を馬鹿にして横柄にふるまう、西の旅行者がいた。
学問は実利に、思想は現実肯定論理と処世術になった。思想は孤独な作業だと思っていたものが、思想は流行に変わった。
貨幣をあがめながら生きる人々に、これほどの勝利感を与えようとは。いま、ヨーロッパのひとつの時代に、決着がつこうとしている。労働の誇りに裏付けられた、ヨーロッパの「古さ」は崩壊しようとしている。
東と同じように西も変わってきているのだ。東の改革しか見ない人は、現実の半分しか見ていない。
暗愚の民を批判して自分の価値を見つけ出そうとしている「私」こそ、現代の暗愚の民そのものではないか。西も東も。
私のなかに、このままパリへ帰るのは嫌だと気持ちが高まってきた。
ドイツとベルギーの国境の町アーヘンで汽車を降り、ルクセンブルクからフランスのロレーヌの山の町に行った。川で鱒を釣ろうという思いだけが私を支配していた。
1、
*「村の秋」。
著者は、鴨長明と源左を対置して紹介する。
源左の資料:柳宗悦「妙好人論集」「妙好人因幡の源左」。「妙好」とは梵語で「ふんだりけ」、意味は白蓮華、ひいてはその花のような清らかな信心。妙好人はそういう篤い信仰心の人をさす。
鴨長明は、現世から隠遁したけれど、その書き物はみな過去への未練であふれている。世捨て人になってさえも、まだ自我の価値の再確認に忙しく、それを離れることができない。
これと対照的に、農民の源左は、知識がないからこそ真理に到達した。
源左は、父親が死ぬ間際にこう言われた。「わしが死んだら親さまを頼め」。
「親さま」は「阿弥陀如来」ということであり、真宗なのである。「頼め」とは「頼りにしろ」、それを頼りに生きていけ、ということだ。
源左は、死ぬということがどういうことか、そして親さまとはどんなものか、その二つがどうしても得心できない。本山へ行ってもだめだった。
ある日、野に居て彼は気づいた。そうか、わしは牛と2人(笑)で暮らしているが、わしはこうして助けられて暮らしている。自分の存在を自分は背負いきれないのに、親さまは黙々と背負ってくれる。
凡夫は聖人にならなくても、凡夫のままで往生できる。それが、他力宗の願いである。「源左や、わしと一緒に極楽へ行こう、わしが必ず極楽に行かせてあげる」。
(*つぶやき=極楽も地獄もなかったらどうなるのだろう。阿弥陀如来がほんとは存在しなかったらどうなるのだろう)。
その日から、源左の考えは変わった。すべてが仏縁になった。親さまの有難さを感じながら暮らすようになった。
親さまは、知識で理解するものではなかった。親さまの「慈悲」を受け入れるときに、分かる。
源左は、普通の暮らしをしながら、その精神が往生を遂げた。それは、彼が自分を「悪い凡夫」だと思っていたからだ。
人は、自分の存在を丸ごと背負い切ることができない。そこから、悪は生じる。悪は、偽り、猜疑、妬み、恨みなど。源左は、自分を知れば知るほど自分の悪を認識した。
でも、本来、人は善も悪もなく存在している。現実の世界は、しかし善悪の中で生きる。それで、「無性の人間」を見失う。
(*註:「無性」とは「悪性」と「善性」両方ないということなのだろう)。
無性であることを離れ、善悪の只中にある現実的自己。悪とはこのこと自体にあるのではないか。
これは、三つの悪(1、単純に悪事をなすこと、2、悪をなして現実存在を得ること、3、無性から離脱しての現実的存在の悲しさ)の最後のそれである。
<本質の世界に還るのが往生。これを保障してくれるのが阿弥陀様。その大慈悲を受けることが他力宗>。
<親さまは自分に代わって悪を背負ってくれた。そして極楽に連れて行ってくれると感じたとき、無性の人間存在の世界が広がって行った。源左はそれに対し、ただ念仏を唱えるばかりだった>。
(*つぶやき=「悪」ってなんだろ。善悪は、価値観である。しかも、極端に道徳的な。しかし、それはあることは或る面から見れば悪であることが、ある面から見れば善であることもあるのである。
価値観は、文明の価値観でもあるし、非文明の価値観でもありうる。だから、両極に振れる。そんなものを尺度に宗教を組み立ててどうする。
親さまは居ないかもしれない。極楽もないかもしれない。「なみあみだぶつ」とは、苦悩を背負ってくれるヒーローにすべて自分を捧げます、という意味だ。「なみ」とは、あずける、ということ。
自分の考えなしに、どうして神(ほとけ)だのみだけで生きていけよう。神も仏も、なみあみだぶつだけでは救ってくれないかもしれない。
あずけてばっかりで、自分の考えなしに、他に頼って流される人生は、戦前の軍国主義でも否応なしに組み込まれ、協力することになる。上からの支配的階層社会への羊的服従。
ただ、親さまを阿弥陀如来ひいては取り巻くすべての周辺物(縁)として、生かされているという感謝の思想は、近代的個人の自我優先の思想(それは大地と共同体から切り離された哀れなひしゃげた賃労働者の思想だ)、利己主義を超える思想を含んでいる。
それは、共同体の思想や自然内包的人間の存在論の思考なのである。
だから、それは宗教に名を借りた、別の哲学なのかもしれない。これだと、別に教団を度外視しても心の中に住まわせることができる、信条なのである)。
2、
「他人の縁は偶然から始まるが、慈悲の縁は悲しさから始まる」。
<次の家は、ばあさんの一人暮らしなんだが、静かに仏壇の前で手を合わせてくれないか。亭主もひとり息子も戦死しちまった。40年以上もひとりだからな。そうしてあげたいんだ>。
<仏のようなばあさんでな。成仏しちまった亭主や息子はどうでもいいんだが、仏さまのご恩を受けて生きている人なんでな>。
「本山にも何度かのぼってなあ、怖いものもなくなった。分別もなくなった。なすがままに生きている。南無阿弥陀仏となえてなあ。
あのばあさんにかかると、すべてが善知識になる。わしはあのばあさんの心をこわしたくないんだなあ」。
冬支度の話になった。
ばあさんに支度をきくと、「昔の半分もせん、だらしなくていつも苦しゅう思ってる、昔は薪お味噌も2年分も3年分もあった。今じゃようせん」。
この分じゃ、しまいには死んでから念仏となえるようになるだ、自分がだらしなくなっていくのが、よう分かる。
昔はのんびりしてたなあ、3年分も薪を積み上げると豊かな気持ちになった。よかったなあ、了三郎。
「わしなど、1年中なんまいだの気分だった。大地に光がさして、大地がわしの親さまで、光が親さまで、村が親さまで、わしがわしの親さまで、なんまいだ、で、温っかくってなあ」。
わしだって昔ばなしはする。
「了三郎、わしはこの齢になって苦しゅうてなあ。自然に昔話が出るだ。昔に帰りたくなるだ。
親さまが助けてくれるだから、この世は極楽だと思っていたが、極楽が消えていくだ。地獄が見えてくるだ。この世が地獄だから、親さまはいるだ。
これは異安心ではなかろうか、と思うと苦しゅうてなあ。
毎日、なんまだ、口について出るだよ」。
「ばあさんが、極楽、地獄の分別しちゃまずかろうが」
「了三郎、分別しちゃまずかろうも分別だぞ。
自然に(口を)ついて出るものは仕方なかろうが。わしが出すんじゃねえ、親さまがそう言わせるだ。
なあ、了三郎。気がついたら何もないだよ。みんな取られただよ。何もかもなくなってるだよ。昔に帰りたいだ、了三郎」。
(*ばあさんは「みんな取られただよ」と言う。亭主も息子も昔のような「力」も。ばあさんにとっては、「老い」はどうしても「極楽」ではなく「地獄」になってしまう。何も言えない。)
3、
「1990年の旅」。
1990年、テレサ・テンが前年からパリに腰を落ち着けた翌年、ステファンと出会った年である。内山さんもパリに行っていた。
パリ・コミューンの銃殺戦士の墓と、そこのマロニエの話はこの旅から書かれた。
パリには、日本人がブランド物を漁りに大勢訪れてあふれていた。パリは変わった。昔のパリではない。もう、アメリカと同じように、利益を追求するただの物欲の街になった。
内山氏は、パリから社会主義の崩壊した東ドイツに行った。なにもかも、金銭欲の横溢してしまった街の様子を見た。そこには、小さな利益をぎらぎらした目で追う、大口の笑いがあった。
東ベルリンにも行った。そこには、崩壊の社会を馬鹿にして横柄にふるまう、西の旅行者がいた。
学問は実利に、思想は現実肯定論理と処世術になった。思想は孤独な作業だと思っていたものが、思想は流行に変わった。
貨幣をあがめながら生きる人々に、これほどの勝利感を与えようとは。いま、ヨーロッパのひとつの時代に、決着がつこうとしている。労働の誇りに裏付けられた、ヨーロッパの「古さ」は崩壊しようとしている。
東と同じように西も変わってきているのだ。東の改革しか見ない人は、現実の半分しか見ていない。
暗愚の民を批判して自分の価値を見つけ出そうとしている「私」こそ、現代の暗愚の民そのものではないか。西も東も。
私のなかに、このままパリへ帰るのは嫌だと気持ちが高まってきた。
ドイツとベルギーの国境の町アーヘンで汽車を降り、ルクセンブルクからフランスのロレーヌの山の町に行った。川で鱒を釣ろうという思いだけが私を支配していた。
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