びーかん日記
尾行と監視され日記、略して「びーかん日記」である。これは、公然たるコーアンとその手先のイジメと弾圧の記録だ。花、鳥、蝶も少々。
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101206五木寛之の<旅文の中の 宗教の話>
■101206五木寛之の<旅文の中の 宗教の話>
*五木寛之の「旅のヒント」をつらつら読んでいたら、靴やカバンの写真なども載ってあり、なんということはない旅のノウハウものか、と途中まで感想していたものが、突然、浄土真宗の話やら、アフガンだのイスラムだの、時にスーフィーの話が出てきて、俄然面白い内容になっていた。
ははぁ、やはり、本づくりの壷を心得てるとはこのことか、と思った。
1、
いっちゃん最初に眼を引いたのは、新幹線ホームで聞いた「静かな湖畔うんぬん」のロシア民謡から、若き日の早稲田在学中、幼稚な歌をクソ真面目に歌っていて、今考えると、ほーんと赤面する、という話。
「静かなうんぬん」の歌に次いで、思い出したのは「おおブレネリうんぬん」の歌(わしも題名知らず)。
「おお ブレネリ、あなたの おうちはどこ」で、五木は3畳に2人で住んでいて、あなたのお家は何処もないもんだ、と書いている。吹き出す内容である。
五木は、あの頃の貧乏学生だった頃の日々を、書いているが(大昔に)、売血して大学の学生食堂で飯を食ったり、結局は授業料が払えなくて除籍したりした。
しかし、こうある。
「当時、私たちが出していた『凍河』という雑誌や、『パンフレット・現代芸術』などのバックナンバーをめくってみると、毛沢東の『文芸講話』批判や、サドや、トルストイを援用してのブラームス批判など、いま読み返してもそれなりに納得する文章を書いてもいる」。
このwebでも、演歌の源流を遡る前段に、五木の「艶歌」や「涙の河をふり返れ」の中の、社会主義的芸術論を批判しての演歌論の部分(会話)を引用した。
だから、上記の学生時代の同好雑誌の理論的蓄積が、のちの小説の「肥やし」になっていたのだと分かる。
2、
仏教の話で、東北の「隠し念仏」と九州の「隠れ念仏」の話もいいが、それより気を引いたのは、嘆異抄(親鸞)の「悪人正機」説の話。
有名な「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という核心部分の文章に異論を唱える信楽峻麿(たかまろ)氏が、「正機」は「正因」と解釈すべき、と主張しているとのこと。
詳しいことは読んで現物の文章に触れてからにするが(講話集)、五木氏の言うことには、「正機」の意味は「めあて」「対象」、だから「悪人」は「目標とする人」「対象となる人」となり、これではおかしい、
だから、「正因」(きっかけの意味)の方である。
じっさい、歎異抄にこうあるという。
「(前略)他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」。
ただの「悪人」ではないのだ。その前段に<他力をたのみたてまつる>という修辞が付く。
だから、悪人一般を救う、という仏の意味は、成立しない。当初の、悪人正機説の世間に流布されている解釈は、間違い、ということになる。
そりゃそうだ。善人が往生を遂げるのだから、悪人ならなおのこと往生を遂げるのは当たり前、という解釈の意味では、普通の人間なら、「おや?」と思うはず。
我輩もそのひとりだった。どうしても、授業の説明では納得がいかない。こうなると、血液型か何か知らないが、一歩も前へは進めない。
だって、そうでしょ、善人より悪人が当たり前に救われたら、善人の立場はなくなる。悪行をさんざん積んだ人間が真っ先に救われる、とはどういうことだ。??
だったら、さんざんぱら悪人のかぎりを尽くした方がいい、という奇妙な結論になる。
「他力信仰に帰依する「悪人」は、救済の対象ではなく、そのことによって往生への道がひらかれるタネ、つまりスプリングボードとなるということだ」と、五木は書いている。
そして、こう結んでいる。
「こう考えると、『歎異抄』が人びとに与えた鮮烈なショックは半分になってしまうような気がする。詩人ではなく、論理で語る宗教家が表に立ち現れてくるからだ。昼型人間としての親鸞聖人は、さて?」。
一応、疑問形で終わって見せている。
これなど、五木氏の解釈では、論理的な「展開」を本来、しなかったのではないか、つまり大雑把な陥穽のある「見得」を切ったのではないか、と思いたくなる。
本来、悪人が「救済を求めて」からこその宗教である。当の悪人が救済もなんも求めず、悪行を尽くして恥じないなら、なんの往生もなんの他力もないことになる。
だから、あの修辞、「他力をたのみたてまつる」という姿勢は、必須の「条件」であり、ここには論理と詩人という対照の、提示はまったくもって不適切というべき。
なぜなら、他力を当てにする必死さは、既に悪人から「転生」する資格を得ているというべきで、だから親鸞の言う「正因」はそれなりに正しいことになる。
「タネ」だの「スプリングボード」だのと、あたかもそこから長い道中、段階があるかのように使うのは、五木さんも人が悪い。
「悪人」の「覚醒」の展開のときの、<激しさ><真摯さ>によって、常人より深い考察に到達し、あきれるほど天晴れな「翻身」を遂げるのは、おびただしい所謂「悪人」の自伝などを通じて分かっているはず。
親鸞は、それなりに正しい。
しかし、「たのみたてまつる」という表現に、我輩などは宗教家つまり坊主の、傲慢な地位と意識を見越して、イヤになる。妻帯してたんでしょ?どうしてえらそうに言える?
だって、坊主は仏の代理を自負しているのではないのか?それで、布施を貰っているのでしょ?違う?
3、
最後にぴたりと付けていたのが、甲斐大策さんという人との対話である。
1939年大連生まれ、というから現在71歳になる。早稲田の文学部東洋美術史科を卒業、1969年からアフガンあたりに通い、ソ連侵攻時にはイスラム教に改宗し(1972年)、いわゆるイスラム戦士として戦った。
五木さんの7年ほど後輩になるのか。
アフガン周辺に渡ったのが1969年だからそれほど早いというわけでもない。しかし、ソ連と戦闘した経験のある日本人など皆無だろう。
この人の話が面白い。
ヒマラヤ山脈の奥地の少数民族に、詩を探しに行く、という。
五木さんが、出来事として挙げた、「いすふぁはん」へキャバレーに行くというから付いていったら、楽器を抱えた老人の吟遊詩人が出て来て、その朗々たる弾き語りを男の客たちが聴いて、ぽろぽろと滂沱の涙を流している、というはなし。
これは、いわば、アイヌ民族で言ったら「ユーカラ」だ。文字を持たない民族は、伝承あるいは口伝という方法をとる。
甲斐さんは、その地は識字率ゼロに近いが、羊飼いの少年ですら「詩人」だという。
また、日本みたいに食いっぱぐれのないところほど「識詩率」(詩に注意!)が低い、と言う。
これは、その通りだろう。文字の「記録」に頼るから、肝心の頭脳の「記憶」が廃頽する。アイヌ民族と日本民族の反比例。
イスラムは神との個人契約、コーランのある部分に納得すれば、もうその人はイスラムで、あとはその人の個人の問題、と。宗教の個人主義。
グルジアからバルト3国に至る吟遊詩人たちが、スターリン時代に一箇所に集められて騙されて虐殺された。と五木氏は語る。その数、何百人何千人。
「アフガンの山の少数民族に、自然のアニミズム的なものとイスラムが一緒になったものがあって、非常に自由な思想を持っているものがある。しかも必ずそこに一種のスーフィズム(神秘主義)が絡んでくるというのが面白いなと思うんです」甲斐氏。2001年の話である。
(スーフィーの踊りはたしか男が白のスカートみたいなのを穿いて、くるくる回る、いつまでも限りなく回る踊りではなかったかと思う。わたしは、瞑想の一種として見た記憶があり、これは日本でも密教のどこかの宗教が同じような「(回る)踊る瞑想修行」をしていたように思う。螺旋の八角形の御堂という非常に珍しい貴重な建築も建築本には載っている。回ることによって、逆に行為を忘れる、蝋燭の火をいつまでも見つめ続ける、という瞑想もあり、これも逆にいうと「目をつぶし」「目を忘れ去り」瞑想の精神世界に入ってゆく。方法論として大昔の行者が確立したものなのだろう。神秘主義と翻訳されているけど、内実はもっと深く精神的だ。そして、その瞑想によって運良く吐き出された抑圧された過去は、すでに既知となり、その後の人生の「解放」となって現象する。だから、瞑想は単なる遊びではなく、「精神革命」(外的世界の革命に対置しての一方のレボリューション)なのである)。
ペシャワールとか、先ごろによく出て来たアフガンの地名。こっちの話も出て来る。
甲斐氏はどうしているか?検索してみると、健在らしい。
2010年2月19日 ... 甲斐大策 小品展. 本日より島田美術館ギャラリーにて始まりました。 甲斐大策 小品展 『月光を食べる』 gekkou2.jpg · gekkou1.jpg 本日2月19日(金)?2月28日(日)*23日火曜日休館 今回の作品展は小振りなサイズの作品が展示され ...
2009年4月20日 ... 何気なくネットを見ていると、福岡市大名「秦王飲酒 甲斐大策展」(LOTTO跡仮設ギャラリー、 福岡市中央区 .... たまたま、東京の方から実家に帰られていた、甲斐大策さんにはじめて会ったのは、ピアノの練習で先生のお宅に伺った時だっ ...
甲斐大策「聖愚者のもの語り」
『神・泥・人』
『餃子ロード』
松岡正剛の「千夜千冊」。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0394.html
*五木寛之の「旅のヒント」をつらつら読んでいたら、靴やカバンの写真なども載ってあり、なんということはない旅のノウハウものか、と途中まで感想していたものが、突然、浄土真宗の話やら、アフガンだのイスラムだの、時にスーフィーの話が出てきて、俄然面白い内容になっていた。
ははぁ、やはり、本づくりの壷を心得てるとはこのことか、と思った。
1、
いっちゃん最初に眼を引いたのは、新幹線ホームで聞いた「静かな湖畔うんぬん」のロシア民謡から、若き日の早稲田在学中、幼稚な歌をクソ真面目に歌っていて、今考えると、ほーんと赤面する、という話。
「静かなうんぬん」の歌に次いで、思い出したのは「おおブレネリうんぬん」の歌(わしも題名知らず)。
「おお ブレネリ、あなたの おうちはどこ」で、五木は3畳に2人で住んでいて、あなたのお家は何処もないもんだ、と書いている。吹き出す内容である。
五木は、あの頃の貧乏学生だった頃の日々を、書いているが(大昔に)、売血して大学の学生食堂で飯を食ったり、結局は授業料が払えなくて除籍したりした。
しかし、こうある。
「当時、私たちが出していた『凍河』という雑誌や、『パンフレット・現代芸術』などのバックナンバーをめくってみると、毛沢東の『文芸講話』批判や、サドや、トルストイを援用してのブラームス批判など、いま読み返してもそれなりに納得する文章を書いてもいる」。
このwebでも、演歌の源流を遡る前段に、五木の「艶歌」や「涙の河をふり返れ」の中の、社会主義的芸術論を批判しての演歌論の部分(会話)を引用した。
だから、上記の学生時代の同好雑誌の理論的蓄積が、のちの小説の「肥やし」になっていたのだと分かる。
2、
仏教の話で、東北の「隠し念仏」と九州の「隠れ念仏」の話もいいが、それより気を引いたのは、嘆異抄(親鸞)の「悪人正機」説の話。
有名な「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という核心部分の文章に異論を唱える信楽峻麿(たかまろ)氏が、「正機」は「正因」と解釈すべき、と主張しているとのこと。
詳しいことは読んで現物の文章に触れてからにするが(講話集)、五木氏の言うことには、「正機」の意味は「めあて」「対象」、だから「悪人」は「目標とする人」「対象となる人」となり、これではおかしい、
だから、「正因」(きっかけの意味)の方である。
じっさい、歎異抄にこうあるという。
「(前略)他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」。
ただの「悪人」ではないのだ。その前段に<他力をたのみたてまつる>という修辞が付く。
だから、悪人一般を救う、という仏の意味は、成立しない。当初の、悪人正機説の世間に流布されている解釈は、間違い、ということになる。
そりゃそうだ。善人が往生を遂げるのだから、悪人ならなおのこと往生を遂げるのは当たり前、という解釈の意味では、普通の人間なら、「おや?」と思うはず。
我輩もそのひとりだった。どうしても、授業の説明では納得がいかない。こうなると、血液型か何か知らないが、一歩も前へは進めない。
だって、そうでしょ、善人より悪人が当たり前に救われたら、善人の立場はなくなる。悪行をさんざん積んだ人間が真っ先に救われる、とはどういうことだ。??
だったら、さんざんぱら悪人のかぎりを尽くした方がいい、という奇妙な結論になる。
「他力信仰に帰依する「悪人」は、救済の対象ではなく、そのことによって往生への道がひらかれるタネ、つまりスプリングボードとなるということだ」と、五木は書いている。
そして、こう結んでいる。
「こう考えると、『歎異抄』が人びとに与えた鮮烈なショックは半分になってしまうような気がする。詩人ではなく、論理で語る宗教家が表に立ち現れてくるからだ。昼型人間としての親鸞聖人は、さて?」。
一応、疑問形で終わって見せている。
これなど、五木氏の解釈では、論理的な「展開」を本来、しなかったのではないか、つまり大雑把な陥穽のある「見得」を切ったのではないか、と思いたくなる。
本来、悪人が「救済を求めて」からこその宗教である。当の悪人が救済もなんも求めず、悪行を尽くして恥じないなら、なんの往生もなんの他力もないことになる。
だから、あの修辞、「他力をたのみたてまつる」という姿勢は、必須の「条件」であり、ここには論理と詩人という対照の、提示はまったくもって不適切というべき。
なぜなら、他力を当てにする必死さは、既に悪人から「転生」する資格を得ているというべきで、だから親鸞の言う「正因」はそれなりに正しいことになる。
「タネ」だの「スプリングボード」だのと、あたかもそこから長い道中、段階があるかのように使うのは、五木さんも人が悪い。
「悪人」の「覚醒」の展開のときの、<激しさ><真摯さ>によって、常人より深い考察に到達し、あきれるほど天晴れな「翻身」を遂げるのは、おびただしい所謂「悪人」の自伝などを通じて分かっているはず。
親鸞は、それなりに正しい。
しかし、「たのみたてまつる」という表現に、我輩などは宗教家つまり坊主の、傲慢な地位と意識を見越して、イヤになる。妻帯してたんでしょ?どうしてえらそうに言える?
だって、坊主は仏の代理を自負しているのではないのか?それで、布施を貰っているのでしょ?違う?
3、
最後にぴたりと付けていたのが、甲斐大策さんという人との対話である。
1939年大連生まれ、というから現在71歳になる。早稲田の文学部東洋美術史科を卒業、1969年からアフガンあたりに通い、ソ連侵攻時にはイスラム教に改宗し(1972年)、いわゆるイスラム戦士として戦った。
五木さんの7年ほど後輩になるのか。
アフガン周辺に渡ったのが1969年だからそれほど早いというわけでもない。しかし、ソ連と戦闘した経験のある日本人など皆無だろう。
この人の話が面白い。
ヒマラヤ山脈の奥地の少数民族に、詩を探しに行く、という。
五木さんが、出来事として挙げた、「いすふぁはん」へキャバレーに行くというから付いていったら、楽器を抱えた老人の吟遊詩人が出て来て、その朗々たる弾き語りを男の客たちが聴いて、ぽろぽろと滂沱の涙を流している、というはなし。
これは、いわば、アイヌ民族で言ったら「ユーカラ」だ。文字を持たない民族は、伝承あるいは口伝という方法をとる。
甲斐さんは、その地は識字率ゼロに近いが、羊飼いの少年ですら「詩人」だという。
また、日本みたいに食いっぱぐれのないところほど「識詩率」(詩に注意!)が低い、と言う。
これは、その通りだろう。文字の「記録」に頼るから、肝心の頭脳の「記憶」が廃頽する。アイヌ民族と日本民族の反比例。
イスラムは神との個人契約、コーランのある部分に納得すれば、もうその人はイスラムで、あとはその人の個人の問題、と。宗教の個人主義。
グルジアからバルト3国に至る吟遊詩人たちが、スターリン時代に一箇所に集められて騙されて虐殺された。と五木氏は語る。その数、何百人何千人。
「アフガンの山の少数民族に、自然のアニミズム的なものとイスラムが一緒になったものがあって、非常に自由な思想を持っているものがある。しかも必ずそこに一種のスーフィズム(神秘主義)が絡んでくるというのが面白いなと思うんです」甲斐氏。2001年の話である。
(スーフィーの踊りはたしか男が白のスカートみたいなのを穿いて、くるくる回る、いつまでも限りなく回る踊りではなかったかと思う。わたしは、瞑想の一種として見た記憶があり、これは日本でも密教のどこかの宗教が同じような「(回る)踊る瞑想修行」をしていたように思う。螺旋の八角形の御堂という非常に珍しい貴重な建築も建築本には載っている。回ることによって、逆に行為を忘れる、蝋燭の火をいつまでも見つめ続ける、という瞑想もあり、これも逆にいうと「目をつぶし」「目を忘れ去り」瞑想の精神世界に入ってゆく。方法論として大昔の行者が確立したものなのだろう。神秘主義と翻訳されているけど、内実はもっと深く精神的だ。そして、その瞑想によって運良く吐き出された抑圧された過去は、すでに既知となり、その後の人生の「解放」となって現象する。だから、瞑想は単なる遊びではなく、「精神革命」(外的世界の革命に対置しての一方のレボリューション)なのである)。
ペシャワールとか、先ごろによく出て来たアフガンの地名。こっちの話も出て来る。
甲斐氏はどうしているか?検索してみると、健在らしい。
2010年2月19日 ... 甲斐大策 小品展. 本日より島田美術館ギャラリーにて始まりました。 甲斐大策 小品展 『月光を食べる』 gekkou2.jpg · gekkou1.jpg 本日2月19日(金)?2月28日(日)*23日火曜日休館 今回の作品展は小振りなサイズの作品が展示され ...
2009年4月20日 ... 何気なくネットを見ていると、福岡市大名「秦王飲酒 甲斐大策展」(LOTTO跡仮設ギャラリー、 福岡市中央区 .... たまたま、東京の方から実家に帰られていた、甲斐大策さんにはじめて会ったのは、ピアノの練習で先生のお宅に伺った時だっ ...
甲斐大策「聖愚者のもの語り」
『神・泥・人』
『餃子ロード』
松岡正剛の「千夜千冊」。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0394.html
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