びーかん日記
尾行と監視され日記、略して「びーかん日記」である。これは、公然たるコーアンとその手先のイジメと弾圧の記録だ。花、鳥、蝶も少々。
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100907テレサ「careless whisper」の神
■100907テレサ「careless whisper」の神
テレサ渾身の両手ガッツ。
careless whisper.

●「careless whisper」。
nhkコンサートでは、「もう、踊れない」=「So I'm never gonna dance again」というフレーズの箇所で、彼女はこの歌の感情の頂点を表現して、左手を強く握っています。
しかし、両手のこぶしを同時に握っている箇所や、振り下ろし握っている箇所が、あります。(この章はあとでも繰り返される歌詞。)
それは「And waste the chance that I've been given」という、悲嘆の「チャンスを失ってしまった」んだ、というピークの箇所です。
彼女は、まったき感情移入をし、全力で「こぶし」を握って、悲痛を吐露しているわけです。彼女の素晴らしい歌唱の秘密ですね。
そして、重要なのはこのフレーズの前においてある、疑問形です。
「Should have known better that
to cheat a friend」
それは、日本語ではいろんな訳し方があるでしょうが、おおむね「友だち(一人称)にうそをつけばよかったのか?」という疑問形あるいは反語形になっています。
これは、逆に言うと、「そんなことはあるまい」ということです。そうじゃないんだ、そんなことないんだ、そんなことはどうでもいい、問題はもう踊れないことなんだ、ということ意味です。
たぶん。自己流ですから、ほかの解釈は自由です。
この「fiend」には、秘密があって、この「ともだち」=一人称(「a」)の「friend」は、godのこと、つまりキリストのことです。
良心にうそをついた方がよかったのか?そうじゃない、そうじゃないんだ、ということなのです。
なぜキリストかと言うと、このあとの章で同じfriendのフレーズが出て来ます。
「The careless whisper of a good friend
To the heart and mind」
この「a good friend」(一人称)がミソです。良い友だち=「ダチ」は、信仰を持っているキリスト教徒にとっては、唯一無二の身近な、頼れるべき「友人」なわけです。それは「神=キリスト」です。
欧米の白人にとっては、説明抜きで通じる言葉づかいなのではないでしょうか。
たしか、他の歌、にもこういう言葉の使い方は出てきていた、と思います。(ビートルズなど)(暇が出来たら、探してみます)
歌に挿入されている「哲学的」な歌詞は、その「a good friend」が出てくる章です。
「Time can never mend
The careless whisper of a good friend
To the heart and mind
Ignorance is kind
There's no comfort in the truth
Pain is all you'll find」
<時は癒してはくれない。
ダチ=神の容赦ないつぶやき、わたしの心底への。
知らないことは「やさしさ」だ。
真実の中に慰めはない。
悲しみがあなたの見つけるすべて。>
これは、悲しみに打ちひしがれている、その人ではなく、客観的に見た言葉。
神が、ささやいている、のです。(心の奥底の良心・真実と言ってもいい)
彼女に「goobye」を言われたわけ、その真相を知らない方がいいのだ、それがかえって(私にとっての)「やさしさ」でもあるのだ、ということ。
知ってなんになろう。
現実は変わらない、ただ、悲しみを悲しむことができるだけ。
悲しむときに、悲しむがいい、ということ。
あの客観的な「真実の中に慰めはない」ということは、つまりは「慰めは真実の中にはない」ということであり、悲しいときに悲しむことが、逆に言うと「ひとの真実」なのだ、ということです。
そうして、ひとは人生をびびっとに生きるのではないでしょうか。「現実」から逃避することなく、現実に生きるのです。ペルソナをかぶってはなりません。
「それがなんになろう」です。
テレサは泣くのを隠したりしてませんでした、彼女は、多くの場面で、臆せず泣いています。自分に正直なのです。
恋人も隠しませんでした。ある時から、隠してなんになろう、と思ったのではないでしょうか。賢いひとですから。
追憶のテレサ。
(彼女が、キリスト教中学に入ってから、信仰に入って行ったかどうかは分かりません。わたしは熱心なキリスト教徒ではなかったのではないか、と思っています。
なぜなら、彼女は、感情を込めるときに、両手を合わせるような、いわば仏教徒のような祈りの合掌をするのです。
動画でも、マイクを握っている手は開けませんから、片手の開いた手の方をマイク手に寄せる格好になります、これが、よく現れます。
「追憶」もそうですよ。)
わたしが、この「careless whisper」を推奨するのは、キリストのつぶやきにからめた、こういう哲学的意味があるからでもあるのですが、
それにもまして、テレサの満身の「ちから」、エネルギーを感じるのです。
彼女の一番の、生命の輝きがあのnhkコンサートだった気がします。
あとを考えると、とても悲しいですが。
(*付録)
●テレサは、歌う歌に、さまざまな感情を(技巧をもって)「注入」しています。
たとえば、演歌の「・・・」という曲(忘れた)。男と女のフレーズの中で、「おとこ」だけ、「お」をとりわけ、打音を付けたくなるぐらい「強調」しています。
これは、ただの男ではなく「わたしの男」、「わたしの彼」、「わたしのあいつ」という意味を込めている、ということが分かります。
これは、他人が言う時には、彼女には「男」がいる、というい表現があるように、他の字句を省いても通じる「男」=<特定の、「情人」「恋人」>という意味を表しているのは、言うでもありません。それです。
だから、ただの男ではないんだよ、愛した男なんだ、という意味を強調するのに、「お」「とこ」なのです。
考えると、ちょっと、「おかしい」・ほほえましい、技巧です。歌に「隠したユーモア」でもあります。



●「careless whisper」。
nhkコンサートでは、「もう、踊れない」=「So I'm never gonna dance again」というフレーズの箇所で、彼女はこの歌の感情の頂点を表現して、左手を強く握っています。
しかし、両手のこぶしを同時に握っている箇所や、振り下ろし握っている箇所が、あります。(この章はあとでも繰り返される歌詞。)
それは「And waste the chance that I've been given」という、悲嘆の「チャンスを失ってしまった」んだ、というピークの箇所です。
彼女は、まったき感情移入をし、全力で「こぶし」を握って、悲痛を吐露しているわけです。彼女の素晴らしい歌唱の秘密ですね。
そして、重要なのはこのフレーズの前においてある、疑問形です。
「Should have known better that
to cheat a friend」
それは、日本語ではいろんな訳し方があるでしょうが、おおむね「友だち(一人称)にうそをつけばよかったのか?」という疑問形あるいは反語形になっています。
これは、逆に言うと、「そんなことはあるまい」ということです。そうじゃないんだ、そんなことないんだ、そんなことはどうでもいい、問題はもう踊れないことなんだ、ということ意味です。
たぶん。自己流ですから、ほかの解釈は自由です。
この「fiend」には、秘密があって、この「ともだち」=一人称(「a」)の「friend」は、godのこと、つまりキリストのことです。
良心にうそをついた方がよかったのか?そうじゃない、そうじゃないんだ、ということなのです。
なぜキリストかと言うと、このあとの章で同じfriendのフレーズが出て来ます。
「The careless whisper of a good friend
To the heart and mind」
この「a good friend」(一人称)がミソです。良い友だち=「ダチ」は、信仰を持っているキリスト教徒にとっては、唯一無二の身近な、頼れるべき「友人」なわけです。それは「神=キリスト」です。
欧米の白人にとっては、説明抜きで通じる言葉づかいなのではないでしょうか。
たしか、他の歌、にもこういう言葉の使い方は出てきていた、と思います。(ビートルズなど)(暇が出来たら、探してみます)
歌に挿入されている「哲学的」な歌詞は、その「a good friend」が出てくる章です。
「Time can never mend
The careless whisper of a good friend
To the heart and mind
Ignorance is kind
There's no comfort in the truth
Pain is all you'll find」
<時は癒してはくれない。
ダチ=神の容赦ないつぶやき、わたしの心底への。
知らないことは「やさしさ」だ。
真実の中に慰めはない。
悲しみがあなたの見つけるすべて。>
これは、悲しみに打ちひしがれている、その人ではなく、客観的に見た言葉。
神が、ささやいている、のです。(心の奥底の良心・真実と言ってもいい)
彼女に「goobye」を言われたわけ、その真相を知らない方がいいのだ、それがかえって(私にとっての)「やさしさ」でもあるのだ、ということ。
知ってなんになろう。
現実は変わらない、ただ、悲しみを悲しむことができるだけ。
悲しむときに、悲しむがいい、ということ。
あの客観的な「真実の中に慰めはない」ということは、つまりは「慰めは真実の中にはない」ということであり、悲しいときに悲しむことが、逆に言うと「ひとの真実」なのだ、ということです。
そうして、ひとは人生をびびっとに生きるのではないでしょうか。「現実」から逃避することなく、現実に生きるのです。ペルソナをかぶってはなりません。
「それがなんになろう」です。
テレサは泣くのを隠したりしてませんでした、彼女は、多くの場面で、臆せず泣いています。自分に正直なのです。
恋人も隠しませんでした。ある時から、隠してなんになろう、と思ったのではないでしょうか。賢いひとですから。

(彼女が、キリスト教中学に入ってから、信仰に入って行ったかどうかは分かりません。わたしは熱心なキリスト教徒ではなかったのではないか、と思っています。
なぜなら、彼女は、感情を込めるときに、両手を合わせるような、いわば仏教徒のような祈りの合掌をするのです。
動画でも、マイクを握っている手は開けませんから、片手の開いた手の方をマイク手に寄せる格好になります、これが、よく現れます。
「追憶」もそうですよ。)
わたしが、この「careless whisper」を推奨するのは、キリストのつぶやきにからめた、こういう哲学的意味があるからでもあるのですが、
それにもまして、テレサの満身の「ちから」、エネルギーを感じるのです。
彼女の一番の、生命の輝きがあのnhkコンサートだった気がします。
あとを考えると、とても悲しいですが。
(*付録)
●テレサは、歌う歌に、さまざまな感情を(技巧をもって)「注入」しています。
たとえば、演歌の「・・・」という曲(忘れた)。男と女のフレーズの中で、「おとこ」だけ、「お」をとりわけ、打音を付けたくなるぐらい「強調」しています。
これは、ただの男ではなく「わたしの男」、「わたしの彼」、「わたしのあいつ」という意味を込めている、ということが分かります。
これは、他人が言う時には、彼女には「男」がいる、というい表現があるように、他の字句を省いても通じる「男」=<特定の、「情人」「恋人」>という意味を表しているのは、言うでもありません。それです。
だから、ただの男ではないんだよ、愛した男なんだ、という意味を強調するのに、「お」「とこ」なのです。
考えると、ちょっと、「おかしい」・ほほえましい、技巧です。歌に「隠したユーモア」でもあります。
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