びーかん日記
尾行と監視され日記、略して「びーかん日記」である。これは、公然たるコーアンとその手先のイジメと弾圧の記録だ。花、鳥、蝶も少々。
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100821最後のテレサ
■100821最後のテレサ/「純情歌姫」を読んで。
*表題は、これが「テレサに関する最後の記事」になるかもしれない、という意味と、テレサの「最後の時期」のことの記事だから、という意味でもある。
おそらくステファンの撮った写真か。
1、
*テレサに関する記事は、積もって15本になった。独立した項目を設けるつもりはなかったが、とうとう「お知らせ」の通知を翻して、テレサ・テン麗君の項を設けてしまった。
アドリブだから、こういうことはよくある(笑)。
正直言って、この15本を書くに当たって、私はかの必読文献を一つも読んでいなかった。すべて、ファン諸氏だのweb検索から引用させてもらったり、動画から辿(たど)って記者的に分析して来たのである。
だから、必要な情報が間接的にしか手に入らなかったり、真偽を確かめられないことがよくあった。今回、必要文献の最後方の出版だと思われる「純情歌姫…テレサ・テンの最後の八年間」(2007年出版)を、読んだ。
かなり、つらかった。それでも、テレサのプライベートな貴重な情報は、納得することが出来た。
2、
著者の鈴木さんには悪いが、やはりテレサは荷が重すぎた。
1987年に出会ってから、翌年1988年、テレサが35歳、鈴木氏29歳。このとき、テレサと鈴木氏は義姉妹になった。テレサが、元歌手で絶対音感を持つ鈴木女史を気に入ってしまったためだ。暗黙の担当ご指名であった。
この時、テレサは彼女に「引退の心づもり」を伝えている。「きれいなうちに引退したい」と。子供を産んで母親になるという、結婚願望もあった。
しかし、この時、鈴木氏は<相手もいないのに>と、結婚はそれからの話、と押し切ってしまう。テレサも、この論法に抵抗できなかった。
客観的にみれば、やはり鈴木氏は、営業サイドの物の考え方、である。彼女の「人生」を想うという、深いところまで到達できないのは当然であった。人生経験とかひとには、積まなければ理解できないことが、よくある。
わたしは、鈴木氏を責めるつもりで書いているのではない。彼女が自分を悔い、テレサのために泣いているのは、分かっている。著作の話があって、出版まで3年もかかっているのだから。
1989年2月、テレサは鈴木氏と香港の返還について国際電話で話をした。鈴木氏は、返還で一体何が起きるんですか、と迂闊にも聞いたという。テレサは、絶句した。
彼我の、歴史認識の差、重要度はまさに天と地だった。これが、本人も書いておられるように、競馬場での民主化支援集会へ参加するときの、対応の違いとなって現れる。
彼女は、テレサを止めた。しかし、テレサは参加を決断していた。天安門事件以前に、もう「死者が出ていた」から。テレサの参加を、止めた彼女にはテレサとのずれが生じていた。香港の、付き人だったアンジェラがテレサの行為を賞讃していたのとは、正反対だったのだから。
テレサの「問い」は、誰にとっても「重い」。
「共産党をどう思いますか。人間には上下があるんですか。共産党だから、学生さんを殺してもいいんですか。そんなことが許されるんですか」(本著から)。
鈴木氏にとっては、応えようがなかった。政治に飛び込めば、不幸を呼び込むことになるのだから。
反中国の極右にとっては、大喜びの記述だろうが、この問題は、殺傷の有無を除外しても、政治党派にとっては難問だった。(*中国政府にとっては戦術的対応のまずさ)
民主化とはいうものの、そこには「西洋的」民主主義の内容が含有していた。民主化とは、資本主義的民主化だったのである。それは、その後の、開放政策の進展が証明している。
あながち、反権力、反スターリニズム(反党官僚)の問題だけではないのだ。ここから、日本でも、分岐が生じた。路線が違えば、行く(生きる)方向も違ってくる。
3、
彼女が、天安門事件後に、鈴木氏の「叱咤」によって、ようやく日本での出演を受け入れたのは、メッセージを届けるためだった。
彼女は、空港で、明確に、記者たちの前で、メッセージを届けるために来ました、と明確に言ったのである。それの、追い討ちを掛けるように、女記者が「どういう思いを込めて歌うのか」と、突っ込んだことに、テレサはアタマをかきむしる様にしてから、「早く中国に帰りたい」と言ったのだった。
それは、それ以上、聞いてはならないことだったのである。彼女の、悲しい、デリケートな部分に直接触れることだった、のだから。
だから、彼女は、一見、なんの脈絡もないような、「早く中国に帰りたい」と言ったのだった。
(*わしも、その突っ込みには腹が立った。そんなの、歌のメッセージを聴けば分かる!こと!なんと、思いやりのない、なんとデリカシーのない!女!)
テレサの発した、TBS「愛の15周年」での直接のメッセージは、次のとおり(本著から)。
「私はチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活していても、私はチャイニーズです。だから、今年の中国のできごと全てに、私は心を痛めています。中国の未来がどこにあるのか、とても心配しています。
私は自由でいたい。そして、全てのひとたちも自由であるべきだと思っています。それが"おびやか"されているのが、とても悲しいです。でも、この悲しくてつらい気持ち、いつか晴れる。誰もきっとわかりあえる。その日がくることを信じて、私は歌ってゆきます」。
これは、テレサの意を汲んだ構成作家がひと晩かかって用意したものだった。
鈴木氏は、このあとの、最終曲「悲しい自由」の、so-long(さようなら)について、テレサに提案していた。「この、so-longを、涙との別れにしませんか」と。もう、十分泣いたでしょう、と。力強く、と。
こうして、私が、動画からその動作を記述で再現した、真上に左手を突き上げるパフォーマンスが生まれた。天上の彼方には、星になった死者たち。涙との別れは、天安門事件の犠牲者への別れ(挽歌)でもあった。
「悲しい自由」は、鈴木氏の機転の利いた提案でシングルカットされていた。なぜなら、その「題名」がその時の、テレサの心情をよく表している、と思ったから、と。
それは、自由な境遇にいる(自分は)悲しさでもあるし(内陸にいる大衆・死者と比較して)、悲しい自由(民主化運動)でもあったのだから。
この曲は、天安門事件のあとに作られたものではないらしいが、題名が偶然にも状況にリンクしていたのである。
「彼女は自由とは何か、私は何をすべき人間なのかを、この事件を画期に深く考えるようになっていきました。つまり、プロ・シンガーとしての目立った活動が少なくなった。反対に、一人の人間として生活できるパリやタイなどで恋人と過ごす時間が増えてゆきます」。
丁度、日本復帰の1984年から1992年まで彼女のマネージャーだった西田裕司さんという人の、貴重な証言。(「追憶のテレサ・テン―ともに歩んだ9年間の日々」1996年)。(記事:100720麗君テレサの遺したテープ、から)
(*注:鈴木氏と、西田氏の担当時期がダブっている。鈴木氏が1987年からだから、6年間である。マネージャーと制作担当がどういう違いがあるのか、よくは分からない)
テレサに応えるかたちで、わたしは聞きたい。
自由、ってなんですか?
わたしには、自由があるのですか?
あなたには?
圧迫と弾圧の日常は、自由ですか?
自由とは、死ぬ自由ですか?
テレサがうらやましがった、日本の豊かさはどこから来ているのですか?
なぜ、毎年3万人以上の国民が自殺するのです?
4、
テレサの、「女王」としてのプライド、弱みを見せまいとする毅然さ。
日本では、言葉の問題でいじめ(と受け取った)られた意外な側面。
中学を中退して、歌手生活で、一家を支えた、そのやさしさと、母を兄弟から独り占めしたという、悔恨。
「オンリー・ワン」だった、その歌手としての成長人生。
ひとりの友達(皮膚病の)しかいなかった、学校生活(外省人差別)。
鈴木女史の描く、テレサの性格分析は、おそらく正しいのだろう。
「だれにも心を許さなかった頑(かたく)ななテレサ」、
「心の許し方を知らないまま大人になった」。
(*100827追記=いろいろ動画を探索しているうちに、どうも違うような気がしてきた。あれほど性格のいい女性がみんなに好かれないわけがない。かたくなだったら、ガードの堅さは表に表れて来て、相手も同様の反応をするものだ。それに、台湾という先輩の友人陵(ニッスイ偏)峰、許など友人もいて気兼ねない会話をしている。日本特有の現象ではないか)
ひとは、だれでも、人生の最初から生まれ育ちの、個別のハンディを引きずって生きている。
テレサだから、ということではない。
しかし、もう、これに触れることは、とても悲しい。そして、後年の、窮状の問題や病気などの問題に至っては、言いたくもない。
だから、わたしは、テレサの「晩年」の歌を見たいとも聞きたいとも思わなくなった。つらくて、正視できないのだ。
最後に、二つの逸話を紹介しよう。
●テレサが広島音楽祭に出演した際、原爆平和記念資料館で涙をぬぐい、慰霊碑に花輪を捧げたことは述べた。
この際のこと。
「慰霊碑の前では、被爆した老婦人の腕を、テレサは泣きながらずっとさすり続けてあげてもいます。大やけどを通り越したケロイドを隠すために夏も長袖で過ごし、結婚もできなかった老婦人の腕でした」(本著から)
●パリにレコーディングで来ていた鈴木らが、テレサの誕生日を内緒で準備し、待ち構えて祝ったそのとき、テレサは驚いて泣きながら言った。
「テレサ、忘れていました。寂しすぎて、自分の誕生日を忘れていました」。
5、
1994年5月、新曲を持って香港に向かった鈴木氏を、テレサは自宅ではなくパブで迎えた。
そして、彼女に、プレゼントしたはずのワイヤレス・ウォークマンと、置き忘れたりしたスチームアイロンを、すべて突き返した。
シンガポールでの録音に鈴木氏が立ち会えなかったこと(担当をはずされつつあった)や、バンスに縛られて移籍がままならなかったことなどが、重なっていった末の、テレサの行動だった。
彼女は、ブランデーを落としたアイリッシュ・コーヒーで少し酔っていた。
そして、鈴木氏が持って来た新曲「ひき潮」を、テレサは「そうですね、テレサもいい曲だと思います。でも、テレサの曲ではありません」、また「テレサ、歌いません。これはテレサの曲ではないですよ」と言って、拒否したのだ。
テレサには、またまたつづく歌の「恋や別れ路線」にうんざりしていた、のかもしれない。彼女は、人生や生きることの意味について、問いかけるような歌を歌いたいと言っていた、というのである。
この「ひき潮」は、悪いことに曲調が「時の流れに身をまかせ」と似ていた。作詞・作曲は、三木・荒木のゴールデン・コンビだった。むべなるかな。
思い通りに行かないものである。
(*このあと、テレサはあれほど一度は拒否した同じコンビに新曲を頼み込む。それだけ、窮地に立っていた。)
テレサは、突き返した、ウォークマンとアイロンの代わりというか、鈴木氏に香水と宝石ブローチを送った。コンビですからね、と。それは、花篭のブローチと、ニナリッチの「ニナ」という香水だった。
私は、その「ニナ」を調べた。何か意味があるはず、と。赤いりんごから採った香水。
「ニナ」は「可愛い少女」という意味があった。そして、それは<ニーナ・シモン>を意識しているとも、とれた。
ニーナ・シモンは、アメリカの有名な黒人歌手で、黒人解放運動に参加したり、気骨ある歌手だった。テレサと同じ、フランスにも住んでいたことがある。
この香水は、一方通行の贈り物だった。なぜなら、鈴木氏の贈り物は返されたのだから。そこには、テレサの悲しみが詰まっているようだった。赤い色の悲しみである。
テレサは、鈴木氏と義姉妹になった日、彼女にイヴ・サンローランの「パリ」という香水を贈っている。「パリ」は赤くはなかった。
6、
わたしは、何度もテレサの歌を聴き返している。
しかし、最後に行き着いたのは、「詩意」(英語名=poetic,on the road)だった。
それは、ピノキオ(fromトキオ)という人が、ふらふら流す自転車を写した田舎道の動画だった。(国籍不明)
じつに、合っている。撮影者は、メディテーションの興味者のようだった。
絶叫ではなく、高唱ではなく、怒りでも悲しみでもなく、ただ、流れる川のような、静かなメロディーだ。
ある熱烈なテレサ・ファンがこう言ってる。
ジャンバラヤの意味?どうだっていいんですよ、意味なんて。と。
なるほど、だった。
彼女の存在を感じさえすれば、それは二の次なのだった。
テレサのファンには、ずいぶんと奥の深いひとがいる。それだけで、わたしはもう十分だ。
*表題は、これが「テレサに関する最後の記事」になるかもしれない、という意味と、テレサの「最後の時期」のことの記事だから、という意味でもある。

1、
*テレサに関する記事は、積もって15本になった。独立した項目を設けるつもりはなかったが、とうとう「お知らせ」の通知を翻して、テレサ・テン麗君の項を設けてしまった。
アドリブだから、こういうことはよくある(笑)。
正直言って、この15本を書くに当たって、私はかの必読文献を一つも読んでいなかった。すべて、ファン諸氏だのweb検索から引用させてもらったり、動画から辿(たど)って記者的に分析して来たのである。
だから、必要な情報が間接的にしか手に入らなかったり、真偽を確かめられないことがよくあった。今回、必要文献の最後方の出版だと思われる「純情歌姫…テレサ・テンの最後の八年間」(2007年出版)を、読んだ。
かなり、つらかった。それでも、テレサのプライベートな貴重な情報は、納得することが出来た。
2、
著者の鈴木さんには悪いが、やはりテレサは荷が重すぎた。
1987年に出会ってから、翌年1988年、テレサが35歳、鈴木氏29歳。このとき、テレサと鈴木氏は義姉妹になった。テレサが、元歌手で絶対音感を持つ鈴木女史を気に入ってしまったためだ。暗黙の担当ご指名であった。
この時、テレサは彼女に「引退の心づもり」を伝えている。「きれいなうちに引退したい」と。子供を産んで母親になるという、結婚願望もあった。
しかし、この時、鈴木氏は<相手もいないのに>と、結婚はそれからの話、と押し切ってしまう。テレサも、この論法に抵抗できなかった。
客観的にみれば、やはり鈴木氏は、営業サイドの物の考え方、である。彼女の「人生」を想うという、深いところまで到達できないのは当然であった。人生経験とかひとには、積まなければ理解できないことが、よくある。
わたしは、鈴木氏を責めるつもりで書いているのではない。彼女が自分を悔い、テレサのために泣いているのは、分かっている。著作の話があって、出版まで3年もかかっているのだから。
1989年2月、テレサは鈴木氏と香港の返還について国際電話で話をした。鈴木氏は、返還で一体何が起きるんですか、と迂闊にも聞いたという。テレサは、絶句した。
彼我の、歴史認識の差、重要度はまさに天と地だった。これが、本人も書いておられるように、競馬場での民主化支援集会へ参加するときの、対応の違いとなって現れる。
彼女は、テレサを止めた。しかし、テレサは参加を決断していた。天安門事件以前に、もう「死者が出ていた」から。テレサの参加を、止めた彼女にはテレサとのずれが生じていた。香港の、付き人だったアンジェラがテレサの行為を賞讃していたのとは、正反対だったのだから。
テレサの「問い」は、誰にとっても「重い」。
「共産党をどう思いますか。人間には上下があるんですか。共産党だから、学生さんを殺してもいいんですか。そんなことが許されるんですか」(本著から)。
鈴木氏にとっては、応えようがなかった。政治に飛び込めば、不幸を呼び込むことになるのだから。
反中国の極右にとっては、大喜びの記述だろうが、この問題は、殺傷の有無を除外しても、政治党派にとっては難問だった。(*中国政府にとっては戦術的対応のまずさ)
民主化とはいうものの、そこには「西洋的」民主主義の内容が含有していた。民主化とは、資本主義的民主化だったのである。それは、その後の、開放政策の進展が証明している。
あながち、反権力、反スターリニズム(反党官僚)の問題だけではないのだ。ここから、日本でも、分岐が生じた。路線が違えば、行く(生きる)方向も違ってくる。
3、
彼女が、天安門事件後に、鈴木氏の「叱咤」によって、ようやく日本での出演を受け入れたのは、メッセージを届けるためだった。
彼女は、空港で、明確に、記者たちの前で、メッセージを届けるために来ました、と明確に言ったのである。それの、追い討ちを掛けるように、女記者が「どういう思いを込めて歌うのか」と、突っ込んだことに、テレサはアタマをかきむしる様にしてから、「早く中国に帰りたい」と言ったのだった。
それは、それ以上、聞いてはならないことだったのである。彼女の、悲しい、デリケートな部分に直接触れることだった、のだから。
だから、彼女は、一見、なんの脈絡もないような、「早く中国に帰りたい」と言ったのだった。
(*わしも、その突っ込みには腹が立った。そんなの、歌のメッセージを聴けば分かる!こと!なんと、思いやりのない、なんとデリカシーのない!女!)
テレサの発した、TBS「愛の15周年」での直接のメッセージは、次のとおり(本著から)。
「私はチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活していても、私はチャイニーズです。だから、今年の中国のできごと全てに、私は心を痛めています。中国の未来がどこにあるのか、とても心配しています。
私は自由でいたい。そして、全てのひとたちも自由であるべきだと思っています。それが"おびやか"されているのが、とても悲しいです。でも、この悲しくてつらい気持ち、いつか晴れる。誰もきっとわかりあえる。その日がくることを信じて、私は歌ってゆきます」。
これは、テレサの意を汲んだ構成作家がひと晩かかって用意したものだった。
鈴木氏は、このあとの、最終曲「悲しい自由」の、so-long(さようなら)について、テレサに提案していた。「この、so-longを、涙との別れにしませんか」と。もう、十分泣いたでしょう、と。力強く、と。
こうして、私が、動画からその動作を記述で再現した、真上に左手を突き上げるパフォーマンスが生まれた。天上の彼方には、星になった死者たち。涙との別れは、天安門事件の犠牲者への別れ(挽歌)でもあった。
「悲しい自由」は、鈴木氏の機転の利いた提案でシングルカットされていた。なぜなら、その「題名」がその時の、テレサの心情をよく表している、と思ったから、と。
それは、自由な境遇にいる(自分は)悲しさでもあるし(内陸にいる大衆・死者と比較して)、悲しい自由(民主化運動)でもあったのだから。
この曲は、天安門事件のあとに作られたものではないらしいが、題名が偶然にも状況にリンクしていたのである。
「彼女は自由とは何か、私は何をすべき人間なのかを、この事件を画期に深く考えるようになっていきました。つまり、プロ・シンガーとしての目立った活動が少なくなった。反対に、一人の人間として生活できるパリやタイなどで恋人と過ごす時間が増えてゆきます」。
丁度、日本復帰の1984年から1992年まで彼女のマネージャーだった西田裕司さんという人の、貴重な証言。(「追憶のテレサ・テン―ともに歩んだ9年間の日々」1996年)。(記事:100720麗君テレサの遺したテープ、から)
(*注:鈴木氏と、西田氏の担当時期がダブっている。鈴木氏が1987年からだから、6年間である。マネージャーと制作担当がどういう違いがあるのか、よくは分からない)
テレサに応えるかたちで、わたしは聞きたい。
自由、ってなんですか?
わたしには、自由があるのですか?
あなたには?
圧迫と弾圧の日常は、自由ですか?
自由とは、死ぬ自由ですか?
テレサがうらやましがった、日本の豊かさはどこから来ているのですか?
なぜ、毎年3万人以上の国民が自殺するのです?
4、
テレサの、「女王」としてのプライド、弱みを見せまいとする毅然さ。
日本では、言葉の問題でいじめ(と受け取った)られた意外な側面。
中学を中退して、歌手生活で、一家を支えた、そのやさしさと、母を兄弟から独り占めしたという、悔恨。
「オンリー・ワン」だった、その歌手としての成長人生。
ひとりの友達(皮膚病の)しかいなかった、学校生活(外省人差別)。
鈴木女史の描く、テレサの性格分析は、おそらく正しいのだろう。
「だれにも心を許さなかった頑(かたく)ななテレサ」、
「心の許し方を知らないまま大人になった」。
(*100827追記=いろいろ動画を探索しているうちに、どうも違うような気がしてきた。あれほど性格のいい女性がみんなに好かれないわけがない。かたくなだったら、ガードの堅さは表に表れて来て、相手も同様の反応をするものだ。それに、台湾という先輩の友人陵(ニッスイ偏)峰、許など友人もいて気兼ねない会話をしている。日本特有の現象ではないか)
ひとは、だれでも、人生の最初から生まれ育ちの、個別のハンディを引きずって生きている。
テレサだから、ということではない。
しかし、もう、これに触れることは、とても悲しい。そして、後年の、窮状の問題や病気などの問題に至っては、言いたくもない。
だから、わたしは、テレサの「晩年」の歌を見たいとも聞きたいとも思わなくなった。つらくて、正視できないのだ。
最後に、二つの逸話を紹介しよう。
●テレサが広島音楽祭に出演した際、原爆平和記念資料館で涙をぬぐい、慰霊碑に花輪を捧げたことは述べた。
この際のこと。
「慰霊碑の前では、被爆した老婦人の腕を、テレサは泣きながらずっとさすり続けてあげてもいます。大やけどを通り越したケロイドを隠すために夏も長袖で過ごし、結婚もできなかった老婦人の腕でした」(本著から)
●パリにレコーディングで来ていた鈴木らが、テレサの誕生日を内緒で準備し、待ち構えて祝ったそのとき、テレサは驚いて泣きながら言った。
「テレサ、忘れていました。寂しすぎて、自分の誕生日を忘れていました」。
5、
1994年5月、新曲を持って香港に向かった鈴木氏を、テレサは自宅ではなくパブで迎えた。
そして、彼女に、プレゼントしたはずのワイヤレス・ウォークマンと、置き忘れたりしたスチームアイロンを、すべて突き返した。
シンガポールでの録音に鈴木氏が立ち会えなかったこと(担当をはずされつつあった)や、バンスに縛られて移籍がままならなかったことなどが、重なっていった末の、テレサの行動だった。
彼女は、ブランデーを落としたアイリッシュ・コーヒーで少し酔っていた。
そして、鈴木氏が持って来た新曲「ひき潮」を、テレサは「そうですね、テレサもいい曲だと思います。でも、テレサの曲ではありません」、また「テレサ、歌いません。これはテレサの曲ではないですよ」と言って、拒否したのだ。
テレサには、またまたつづく歌の「恋や別れ路線」にうんざりしていた、のかもしれない。彼女は、人生や生きることの意味について、問いかけるような歌を歌いたいと言っていた、というのである。
この「ひき潮」は、悪いことに曲調が「時の流れに身をまかせ」と似ていた。作詞・作曲は、三木・荒木のゴールデン・コンビだった。むべなるかな。
思い通りに行かないものである。
(*このあと、テレサはあれほど一度は拒否した同じコンビに新曲を頼み込む。それだけ、窮地に立っていた。)
テレサは、突き返した、ウォークマンとアイロンの代わりというか、鈴木氏に香水と宝石ブローチを送った。コンビですからね、と。それは、花篭のブローチと、ニナリッチの「ニナ」という香水だった。
私は、その「ニナ」を調べた。何か意味があるはず、と。赤いりんごから採った香水。
「ニナ」は「可愛い少女」という意味があった。そして、それは<ニーナ・シモン>を意識しているとも、とれた。
ニーナ・シモンは、アメリカの有名な黒人歌手で、黒人解放運動に参加したり、気骨ある歌手だった。テレサと同じ、フランスにも住んでいたことがある。
この香水は、一方通行の贈り物だった。なぜなら、鈴木氏の贈り物は返されたのだから。そこには、テレサの悲しみが詰まっているようだった。赤い色の悲しみである。
テレサは、鈴木氏と義姉妹になった日、彼女にイヴ・サンローランの「パリ」という香水を贈っている。「パリ」は赤くはなかった。
6、
わたしは、何度もテレサの歌を聴き返している。
しかし、最後に行き着いたのは、「詩意」(英語名=poetic,on the road)だった。
それは、ピノキオ(fromトキオ)という人が、ふらふら流す自転車を写した田舎道の動画だった。(国籍不明)
じつに、合っている。撮影者は、メディテーションの興味者のようだった。
絶叫ではなく、高唱ではなく、怒りでも悲しみでもなく、ただ、流れる川のような、静かなメロディーだ。
ある熱烈なテレサ・ファンがこう言ってる。
ジャンバラヤの意味?どうだっていいんですよ、意味なんて。と。
なるほど、だった。
彼女の存在を感じさえすれば、それは二の次なのだった。
テレサのファンには、ずいぶんと奥の深いひとがいる。それだけで、わたしはもう十分だ。
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