びーかん日記
尾行と監視され日記、略して「びーかん日記」である。これは、公然たるコーアンとその手先のイジメと弾圧の記録だ。花、鳥、蝶も少々。
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100516蝦夷のこと奴隷史より1。
■100516蝦夷のこと奴隷史より1。
「日本奴隷史」から、俘囚に関する部分を要約抜粋して整理する。
●*なお、「夷浮の名がいつごろまで存在したか」という問いに、著者の安部弘蔵氏は、元慶7年の三代実録陽成天皇の紀の以降には、その名前が見えないが、夷種の横暴、侵掠の、逆乱・消滅を神廟に詔勅告文を捧げた記録がある、と書いている。元慶7年は、883年?平安時代である。
しかし、宝亀5年(774年)から弘仁2年(811年)まで蝦夷38年戦争という「蝦夷征討がある(うぃきぺでぃあ)。これの記録をよむと、やまと軍勢はこてんぱんにやられている。だんだん鎮圧されていくが。
それ以後、「組織だった蝦夷征討は停止し、支配下となった夷俘・俘囚の反乱が記録されるのみとなった。津軽や渡島の蝦夷は依然蝦夷と呼ばれた」。
安部氏のいう元慶7年あたりに、元慶2年(878年)出羽夷俘反乱(元慶の乱)、天慶2年(939年)出羽俘囚反乱(天慶の乱)がある。
安部氏は「かかる勢いなればにや、ついに前記の年代より年をおいて、朝威の衰えることはなはだしく、この族の浩々とおこりて、良民と異にせしめられたる禁令も、その効果なく、いつしか民雑柔(米へん)して、方物すべからざるまでに至りしなり」と書いている。
「方物」が分からないが、これは分別がつかなくなった、ということだろう。つまり、同化と。
柵の築砦の歴史は、おおかた次のようである。(城は省いた)(うぃきぺでぃあ)
・大化3年(647年)停(さんズイ)足柵。(新潟市沼垂付近とか)
・大化4年(648年)磐舟柵。(新潟県村上市岩船とか)
・和銅元年(708年)出羽柵。(山形県庄内地方の羽黒山と赤川河口の間とか。のち秋田へ)
・天平9年(737年)牡鹿柵。(宮城県)
●
1、<蝦夷が東北ばかりでなく播磨にも伊勢にも新潟にも上総にも居たこと>(*蝦夷の居住圏は東北と関東と一般に言われている)
?俘囚の項目を見ると、蝦夷が東北ばかりでなく、近江の「境界」の外にも居たことが分かる。国名としては、播磨。(ただし、蝦夷が一様に同じ民族だったかどうかは不明だ)。
<播磨の国の夷俘、近江の国に入り来たりてより、所管の国司をして、その防禁にせしめたること>(続日本紀)
境界の柵(砦)からたびたび侵入して、横暴し勝手に振舞うので、按察使や国司が譴責されている。京にも入ってくるというのだから、穏やかでない。
「続日本紀・承和2年12月の條に、夷俘境を出、禁制す巳久しく、しかして年頃意に任せて京に這入る徒あり、しかして官符を下す、譴責陸奥出羽按察使ならびに国司鎮守府など、とあり。」
?「続日本紀・承和2年12月の條に、夷俘境を出、禁制す巳久しく、しかして年頃意に任せて京に這入る徒あり、しかして官符を下す、譴責陸奥出羽按察使ならびに国司鎮守府など、とあり。」
陸奥と出羽の国司が譴責されているのだから、これは播磨ではなく東北から越境ということである。
越(こし)の国の蝦夷が、俘人7000戸を一郡にしてくれと嘆願した、というのもある。新潟も蝦夷だったのである(天武天皇11年)。
?また、伊勢にも蝦夷が出てくる。<景行天皇紀43年日本武尊の伊勢ののぼのにて疾革なる條に、蝦夷らを俘(とら)うるところをもって、神宮において献ず>、とある。
?また、上宮聖徳太子伝補けつ記には、斑鳩寺(創建法隆寺の誤りか)被災の後に三井寺を造らしむ、の項に、家人「まてそいの」「まてかなみ」「おはたいぬ」「かんゆずせなみ」ら6人を並びて奴婢となす、と出てくる。全部アイヌ人名の如し。
(*三井寺(=法輪寺)は別名で、地名の三井から由来する。創建は、2種あり、後者は670年天智天皇9年、奈良時代末期である)
(*家人は「けにん」と読み、奴婢より身分が上、と辞典にあり)
?応神天皇紀9年4月、天皇親しく竹内の「かんびない」の兄弟を菊訊するの條。竹内の宿弥(すくね)が横刀を執って「かんびない」を倒す、とある。これもアイヌ人らしい「ナイ」だ。
*ここに上げられている蝦夷の名前「うかこあいの」「かこらいぬ」は、じつにアイヌ人名的で、興味ぶかい。アイヌ人研究者の金田一は、初めアイヌではなく「アイノ」とも呼んでいたこともある。
古文書に出没する蝦夷名が、母音「ィ」や「ア」や「オ」で終わっていることは、やはり蝦夷がアイヌ人の先祖であることを、想像させる。これは、「あいぬ」が末尾母音が消滅して(呑みこむ音)「しゃくしゃイン」とか「++ィ」「++ア」となる、転化する好例だと、感じられる。
「お」は「あいの」という場合の「オ」である。
?「盗賊防禁のため、上総の国に散居せしめたる夷俘の野心を挟(はさ)めるを陸奥の国に放逐せよと、令せらたると」。
*上総の国に蝦夷がいた。「散居せしめたる」とあるが、移転させたのか、それとも初めから居たのかはっきりしないが、おそらく後者。「防禁のため」は、散居せしめ、に掛かるのではなく、放逐にかかる「ため」だろうから、上総の国に、散居していた蝦夷、と解釈すべきだろう。
<三代実録貞観12年の條に、「太政官下符上総の国司へ、夷種に教え諭(さと)すを命じいわく、夷種分かち、中つ国に散居し、盗賊の縦横無尽だ、その防御を命じる、しかし、今あるあいだ、彼の国の夷俘、なお野心を挟む、いまだ花風(中華の華)に染まらず、あるいは民室に火をつける、あるいは兵を持ち、人財物を掠め取る、およそ群盗の徒である、これにより起(た)ち、いま戒めとどめず。のちの害の如しか。よろしく勤めるべし、捕らえ弱め、その賊心を改めさせ、若しくは皇化に向かうに改めさせ、ことに、あわれみを加えて、その性質を習わせ、官吏の教えに背くのには奥地へ追い払い、(鹿三つケモノ黄の)やからの柔良の民を侵せせしむるなかれ、とあり。」>
問題は、「中つ国」の解釈だ。中部と解していいのではないか。伊勢にも蝦夷が居たのだから、上総との間にある「長野」「岐阜」も「中つ国」に該当する。
(脱線:*面白いことに、政府がいくら蝦夷との交流を禁じても、ヤマトの平民が禁止憲章をおそれず蝦夷と交易し貨幣を売った、蝦夷は綿を手に入れ甲冑の襖(両脇のない上衣)に仕立てた。「敵(蝦夷のこと)」は農器を作って商いを図った(逆かも知れぬ、倭人が売ったと)、とある。また、王臣国司自身がえびす馬を買い、奴婢を俘(とら)えた、とある。捕捉して奴隷にしたのである。昔は、異族あるいは下層民は「物扱い」であった。
「官符に、(略)害を為すこと極めて深し、自今以後よろしく厳禁すべし、うんぬん」(類聚三代格延暦6年、陸奥按察使禁断、百姓と夷種組み交わり関係することに応(こた)う)。
?「類聚国史政理部免租税の條に、弘仁8年9月丙申(ひのえさる)、常陸の国に言う、去年11月の格によると、6年以上を経て夷種の口分田の租税を納めるのを守らなかった。しかして、夷俘ら厚恩少しばかりといえども、いまだ貧乏を逃れず。伏して望む、しばらく田租税を免ずるを、よって夷テキ(獣へんに火)を優遇するをこれを許す、とあり。」
常陸の国の蝦夷が、口分田を与えて初め租税を免除し6年たったが、まだ納税を守らなかったというのである。貧乏で、免税を伏して懇願するので、蝦夷の免税をまた許した、と。
やはり、当時の稲作技術では、品種改良も進まず、まして農耕になじまない蝦夷であれば、気候の冷涼な東北南部であれ、米の収穫は順調ではなかったのではないか。
●2、<蝦夷の俘囚(捕虜)が列島各地に、愛媛・筑紫・和泉に配流されたこと>
?かつて新羅の海賊が日本を荒らししたので、追討を命じたがみな恐れおののいて行なわなかった。そこで、俘囚を徴発し大宰府に送った。俘囚を2つに分け、100人づつ毎月交替として使役したが、難事が多く、今度は50人とした、とある。
(*脱線するが、安倍元首相は、先祖が北九州で安東の末裔だと吹聴し、安東ゆかりの某神社にも訪問しているが、彼は蝦夷の配流地の太宰や北九州だと知っているのであろうか?)
?続日本紀・神亀2年、「俘囚144人伊予国、俘囚578人筑紫国、俘囚15人和泉監(大和か)に配す」。
伊予は愛媛、坊ちゃんのふるさとである。筑紫は大宰府のある福岡県西部および南部、とうぃきぺでぃあ。
和泉(いずみ)は、今の大阪府にある。畿内に含まれ、713年の詔勅によって「わ」は読まない、という。和泉監の「監」は、監獄の監で、つまり「おり」ということであり、とどのつまり大昔「げっとー」であったのだろう。
そういう、フィールド・ワークの報告がある。
?続日本紀・「天平10年12月、陸奥の国俘囚395人、分かち、太宰管内諸国に配す」。
?類聚国史俘囚の部・「大同元年10月、……近江の国に在る夷俘640人を大宰府に遷す。防人(さきもり)のために置く。国ごとに、えんみじょう一人が専らその事に当たる。駆使勘当(使役と懲罰)、平民と同じくする勿(なか)れ」。
「日本奴隷史」から、俘囚に関する部分を要約抜粋して整理する。
●*なお、「夷浮の名がいつごろまで存在したか」という問いに、著者の安部弘蔵氏は、元慶7年の三代実録陽成天皇の紀の以降には、その名前が見えないが、夷種の横暴、侵掠の、逆乱・消滅を神廟に詔勅告文を捧げた記録がある、と書いている。元慶7年は、883年?平安時代である。
しかし、宝亀5年(774年)から弘仁2年(811年)まで蝦夷38年戦争という「蝦夷征討がある(うぃきぺでぃあ)。これの記録をよむと、やまと軍勢はこてんぱんにやられている。だんだん鎮圧されていくが。
それ以後、「組織だった蝦夷征討は停止し、支配下となった夷俘・俘囚の反乱が記録されるのみとなった。津軽や渡島の蝦夷は依然蝦夷と呼ばれた」。
安部氏のいう元慶7年あたりに、元慶2年(878年)出羽夷俘反乱(元慶の乱)、天慶2年(939年)出羽俘囚反乱(天慶の乱)がある。
安部氏は「かかる勢いなればにや、ついに前記の年代より年をおいて、朝威の衰えることはなはだしく、この族の浩々とおこりて、良民と異にせしめられたる禁令も、その効果なく、いつしか民雑柔(米へん)して、方物すべからざるまでに至りしなり」と書いている。
「方物」が分からないが、これは分別がつかなくなった、ということだろう。つまり、同化と。
柵の築砦の歴史は、おおかた次のようである。(城は省いた)(うぃきぺでぃあ)
・大化3年(647年)停(さんズイ)足柵。(新潟市沼垂付近とか)
・大化4年(648年)磐舟柵。(新潟県村上市岩船とか)
・和銅元年(708年)出羽柵。(山形県庄内地方の羽黒山と赤川河口の間とか。のち秋田へ)
・天平9年(737年)牡鹿柵。(宮城県)
●
1、<蝦夷が東北ばかりでなく播磨にも伊勢にも新潟にも上総にも居たこと>(*蝦夷の居住圏は東北と関東と一般に言われている)
?俘囚の項目を見ると、蝦夷が東北ばかりでなく、近江の「境界」の外にも居たことが分かる。国名としては、播磨。(ただし、蝦夷が一様に同じ民族だったかどうかは不明だ)。
<播磨の国の夷俘、近江の国に入り来たりてより、所管の国司をして、その防禁にせしめたること>(続日本紀)
境界の柵(砦)からたびたび侵入して、横暴し勝手に振舞うので、按察使や国司が譴責されている。京にも入ってくるというのだから、穏やかでない。
「続日本紀・承和2年12月の條に、夷俘境を出、禁制す巳久しく、しかして年頃意に任せて京に這入る徒あり、しかして官符を下す、譴責陸奥出羽按察使ならびに国司鎮守府など、とあり。」
?「続日本紀・承和2年12月の條に、夷俘境を出、禁制す巳久しく、しかして年頃意に任せて京に這入る徒あり、しかして官符を下す、譴責陸奥出羽按察使ならびに国司鎮守府など、とあり。」
陸奥と出羽の国司が譴責されているのだから、これは播磨ではなく東北から越境ということである。
越(こし)の国の蝦夷が、俘人7000戸を一郡にしてくれと嘆願した、というのもある。新潟も蝦夷だったのである(天武天皇11年)。
?また、伊勢にも蝦夷が出てくる。<景行天皇紀43年日本武尊の伊勢ののぼのにて疾革なる條に、蝦夷らを俘(とら)うるところをもって、神宮において献ず>、とある。
?また、上宮聖徳太子伝補けつ記には、斑鳩寺(創建法隆寺の誤りか)被災の後に三井寺を造らしむ、の項に、家人「まてそいの」「まてかなみ」「おはたいぬ」「かんゆずせなみ」ら6人を並びて奴婢となす、と出てくる。全部アイヌ人名の如し。
(*三井寺(=法輪寺)は別名で、地名の三井から由来する。創建は、2種あり、後者は670年天智天皇9年、奈良時代末期である)
(*家人は「けにん」と読み、奴婢より身分が上、と辞典にあり)
?応神天皇紀9年4月、天皇親しく竹内の「かんびない」の兄弟を菊訊するの條。竹内の宿弥(すくね)が横刀を執って「かんびない」を倒す、とある。これもアイヌ人らしい「ナイ」だ。
*ここに上げられている蝦夷の名前「うかこあいの」「かこらいぬ」は、じつにアイヌ人名的で、興味ぶかい。アイヌ人研究者の金田一は、初めアイヌではなく「アイノ」とも呼んでいたこともある。
古文書に出没する蝦夷名が、母音「ィ」や「ア」や「オ」で終わっていることは、やはり蝦夷がアイヌ人の先祖であることを、想像させる。これは、「あいぬ」が末尾母音が消滅して(呑みこむ音)「しゃくしゃイン」とか「++ィ」「++ア」となる、転化する好例だと、感じられる。
「お」は「あいの」という場合の「オ」である。
?「盗賊防禁のため、上総の国に散居せしめたる夷俘の野心を挟(はさ)めるを陸奥の国に放逐せよと、令せらたると」。
*上総の国に蝦夷がいた。「散居せしめたる」とあるが、移転させたのか、それとも初めから居たのかはっきりしないが、おそらく後者。「防禁のため」は、散居せしめ、に掛かるのではなく、放逐にかかる「ため」だろうから、上総の国に、散居していた蝦夷、と解釈すべきだろう。
<三代実録貞観12年の條に、「太政官下符上総の国司へ、夷種に教え諭(さと)すを命じいわく、夷種分かち、中つ国に散居し、盗賊の縦横無尽だ、その防御を命じる、しかし、今あるあいだ、彼の国の夷俘、なお野心を挟む、いまだ花風(中華の華)に染まらず、あるいは民室に火をつける、あるいは兵を持ち、人財物を掠め取る、およそ群盗の徒である、これにより起(た)ち、いま戒めとどめず。のちの害の如しか。よろしく勤めるべし、捕らえ弱め、その賊心を改めさせ、若しくは皇化に向かうに改めさせ、ことに、あわれみを加えて、その性質を習わせ、官吏の教えに背くのには奥地へ追い払い、(鹿三つケモノ黄の)やからの柔良の民を侵せせしむるなかれ、とあり。」>
問題は、「中つ国」の解釈だ。中部と解していいのではないか。伊勢にも蝦夷が居たのだから、上総との間にある「長野」「岐阜」も「中つ国」に該当する。
(脱線:*面白いことに、政府がいくら蝦夷との交流を禁じても、ヤマトの平民が禁止憲章をおそれず蝦夷と交易し貨幣を売った、蝦夷は綿を手に入れ甲冑の襖(両脇のない上衣)に仕立てた。「敵(蝦夷のこと)」は農器を作って商いを図った(逆かも知れぬ、倭人が売ったと)、とある。また、王臣国司自身がえびす馬を買い、奴婢を俘(とら)えた、とある。捕捉して奴隷にしたのである。昔は、異族あるいは下層民は「物扱い」であった。
「官符に、(略)害を為すこと極めて深し、自今以後よろしく厳禁すべし、うんぬん」(類聚三代格延暦6年、陸奥按察使禁断、百姓と夷種組み交わり関係することに応(こた)う)。
?「類聚国史政理部免租税の條に、弘仁8年9月丙申(ひのえさる)、常陸の国に言う、去年11月の格によると、6年以上を経て夷種の口分田の租税を納めるのを守らなかった。しかして、夷俘ら厚恩少しばかりといえども、いまだ貧乏を逃れず。伏して望む、しばらく田租税を免ずるを、よって夷テキ(獣へんに火)を優遇するをこれを許す、とあり。」
常陸の国の蝦夷が、口分田を与えて初め租税を免除し6年たったが、まだ納税を守らなかったというのである。貧乏で、免税を伏して懇願するので、蝦夷の免税をまた許した、と。
やはり、当時の稲作技術では、品種改良も進まず、まして農耕になじまない蝦夷であれば、気候の冷涼な東北南部であれ、米の収穫は順調ではなかったのではないか。
●2、<蝦夷の俘囚(捕虜)が列島各地に、愛媛・筑紫・和泉に配流されたこと>
?かつて新羅の海賊が日本を荒らししたので、追討を命じたがみな恐れおののいて行なわなかった。そこで、俘囚を徴発し大宰府に送った。俘囚を2つに分け、100人づつ毎月交替として使役したが、難事が多く、今度は50人とした、とある。
(*脱線するが、安倍元首相は、先祖が北九州で安東の末裔だと吹聴し、安東ゆかりの某神社にも訪問しているが、彼は蝦夷の配流地の太宰や北九州だと知っているのであろうか?)
?続日本紀・神亀2年、「俘囚144人伊予国、俘囚578人筑紫国、俘囚15人和泉監(大和か)に配す」。
伊予は愛媛、坊ちゃんのふるさとである。筑紫は大宰府のある福岡県西部および南部、とうぃきぺでぃあ。
和泉(いずみ)は、今の大阪府にある。畿内に含まれ、713年の詔勅によって「わ」は読まない、という。和泉監の「監」は、監獄の監で、つまり「おり」ということであり、とどのつまり大昔「げっとー」であったのだろう。
そういう、フィールド・ワークの報告がある。
?続日本紀・「天平10年12月、陸奥の国俘囚395人、分かち、太宰管内諸国に配す」。
?類聚国史俘囚の部・「大同元年10月、……近江の国に在る夷俘640人を大宰府に遷す。防人(さきもり)のために置く。国ごとに、えんみじょう一人が専らその事に当たる。駆使勘当(使役と懲罰)、平民と同じくする勿(なか)れ」。
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